テーマ:薬物乱用の歴史

中国での覚せい剤密造 | 覚せい剤密輸の半世紀9

2、中国大陸への密造拠点の移転  1990年代初めころ、韓国や台湾は覚せい剤に対する取り締まりを強化し、国内での密造を制圧しました。覚せい剤供給の源泉を断ったことで、韓国や台湾では、拡大し始めた覚せい剤乱用問題が鎮静化し、わが国でも、密輸される覚せい剤が減少し、品薄状態となりました。一時的には、大成功をおさめたことになります。  し…
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密造拠点の中国への移動 | 覚せい剤密輸の半世紀8

覚せい剤密輸の半世紀 第2章 大規模な密造地域の形成・・・1990年代~  韓国や台湾の覚せい剤密造拠点は、各国での取り締まり強化にともなって、さらに新たな地域に移転・拡散していきます。台湾の密造グループは、対岸の中国福建省や広東省の沿岸部に新たな密造拠点を広げ、また韓国の密造グループからは、韓民族の住む中国北東部へ密造技術…
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覚せい剤密輸事件 | 覚せい剤密輸の半世紀7

6、覚せい剤密輸事件  1970年代、韓国や台湾などの近隣国で密造される覚せい剤が日本に密輸されるようになり、日本国内で密売される覚せい剤が次第に増加し始めます。覚せい剤密輸の草分けともいえるこの時期に、どんな人たちが、どのような手法で密輸を行っていたのか、実際の事件を通じてみておきましょう。 ⑴ 運び屋たち  1…
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台湾への進出 | 覚せい剤密輸の半世紀6

5、台湾への進出  1975(昭和50)年ころになると、わが国で摘発される覚せい剤密輸事件の仕出し地として、台湾、タイ、香港などが散見されるようになります。なかでも台湾は、その後わが国への主要な供給地になり、それまでわが国への覚せい剤供給地として第一位を占めていた韓国に代わって、1984(昭和59)年以降は、台湾が仕出し地の首位を占め…
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密造拠点の拡散 | 覚せい剤密輸の半世紀5

4、韓国での取り締まり強化と密造拠点の拡散  韓国では、日本統治時代にモルヒネ等の麻薬乱用が広まり[31] 、1945年の独立後もしばらくは深刻な状況が続きましたが、その後の強力な取り締まりによって、1960年代後半ころから麻薬犯罪は急速に減少し始め、1970年代には麻薬問題はほぼ根絶したと見られていました。  しかし、やがて日…
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密造拠点は韓国へ|覚せい剤密輸の半世紀4

覚せい剤密輸の半世紀を振り返る連続記事です。 第1章 密造から密輸へ・・・1970年代~ を続けます。 3、韓国での覚せい剤密造の開始  1969(昭和44)年ころ、再び覚せい剤市場が活発化し始めるとともに、国内での密造も動き始めましたが、覚せい剤の密造は悪臭を発するために発覚しやすく、警察による摘発が相次ぎ、やがて密造は下…
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シャブ時代の開幕|覚せい剤密輸の半世紀3

覚せい剤密輸の半世紀を振り返る連続記事です。 前記事は ヒロポン時代の終焉|覚せい剤密輸の半世紀2 (2014/03/28) http://33765910.at.webry.info/201403/article_13.html 第1章 密造から密輸へ・・・1970年代~ 1、シャブの時代の開幕  1958(昭和3…
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ヒロポン時代の終焉|覚せい剤密輸の半世紀2

現在、日本の乱用市場に出回る覚せい剤のほとんどは、外国で密造され、不正な手段で密輸されたものです。 最初は国内で密造されていた覚せい剤が、外国から密輸されるようになったのは1970(昭和45)年ころのことで、それ以来およそ半世紀にわたって、日本の乱用市場は、もっぱらアジアの近隣国からの覚せい剤を受け入れながら拡大し、成熟してきました。…
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日本の覚せい剤密輸を振り返る|覚せい剤密輸の半世紀1

現在、日本の乱用市場に出回る覚せい剤のほとんどは、外国で密造され、不正な手段で密輸されたものです。 最初は国内で密造されていた覚せい剤が、外国から密輸されるようになったのは1970(昭和45)年ころのことで、それ以来、日本の乱用市場に向けて、外国産の覚せい剤が密輸され続けていることになります。 日本への覚せい剤密輸が始まって、やがて…
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阿片からヘロインへ|芥子と阿片3

中国の阿片問題は、その後、日本の侵攻とともにますます深刻さを増していきますが、それについては別な機会に改めてまとめることにして、話を先に進めましょう。 第二次大戦後、かつて阿片禍に苦しんだ中国や東南アジアでは、阿片の乱用はほとんどみられなくなり、中国の阿片喫煙にまつわる文物も、今では過去の遺産となりました。阿片を薬物として摂取する習慣…
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中国清時代の阿片|芥子と阿片2

阿片・・・麻薬の代表格として、あるいは阿片戦争という史実を通じて、その名は日本人に広く知られていますが、阿片を(写真でも)見たことのある方は少ないと思います。「阿片」で想起するイメージといえば、辮髪の中国人が長いキセルで吸っている光景や、あるいは阿片戦争を描いた絵といったものでしょうか。日本人と結びついた阿片の光景は、ちょっと思い浮かび…
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警察と覚せい剤|覚せい剤問題の歴史10

5 警察と覚せい剤 ここで、警察が覚せい剤事犯の取り締まりに取り組むようになった経緯について、簡単にまとめておきたいと思います。そもそも、警察が薬物事犯の取締りに本格的に取り組むようになったのは、覚せい剤取締法が制定された1951(昭和26)年前後からのことなのです。 わが国は、明治以来、あへんに対する強い警戒意識をもち、き…
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ヒロポン密造団|覚せい剤問題の歴史9

4 ヒロポン密造団 覚せい剤取締法が制定・施行され、正規ルートで市場に出回る覚せい剤が大きく制限されるようになると、ヤミ市場に出回る覚せい剤の姿にも変化が生じます。それまで、正規商品の偽造品として流通していたものが、もはや偽造レッテルなどで偽装する必要がなくなり、密造品そのものとして不正市場を形成し始めるのです。法が制定されて最初…
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偽造品から密造品へ|覚せい剤問題の歴史8

3 偽造品から密造品へ、ヤミ商品化したヒロポン 1951(昭和26)年、覚せい剤取締法が制定されます。前述したように、終戦後間もなくヒロポンが問題視され始めたころから、当時の医薬品取り締まり手法の枠内で、つまり薬事法を基盤に、その販売を制限し、また流通量を削減する手段が講じられてきましたが、正規の流通が抑制されると同時に、ヒロポン…
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ブラックマーケットの誕生|覚せい剤問題の歴史7

2 ブラックマーケットの誕生 1949から1950(昭和24から25)年の2年間、厚生省は覚せい剤の製造を規制する一連の行政措置を投入し、市場に出回る覚せい剤の押さえ込みを図ります。1950(昭和25)年7-9月の3か月分として、製造業者に割り当てた製造量は700リットルで、これは前年の製造実績(前述したように月産7000リットル…
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ヒロポン国を亡ぼす|覚せい剤問題の歴史6

Ⅱ戦後の混乱とヒロポンの大流行 1、ヒロポン国を亡ぼす 私たちが知っている日本の覚せい剤問題は、1945(昭和20)年8月の第二次世界大戦終戦直後に、きわめて唐突な形で発生しました。覚せい剤問題を語るときしばしば引用される専門書は、その状況を次のようにいいます。  「わが国の社会が初めて経験した深刻な薬物乱用は、戦後の覚せ…
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ヒロポン入りチョコレート|覚せい剤問題の歴史5

戦時下の日本では、軍需用としてヒロポンなどの覚せい剤が使われたと伝えられていますが、そのなかで、航空隊でのヒロポン使用に関する具体的な証言が残されています。 そのひとつは、昭和13年に陸軍航空技術研究所に入所して航空糧食の研究に当たっていたという著者が後年出版した書物で、「ヒロポン入りチョコレート」という一文に次の記載があります。…
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突撃錠、猫目錠―覚せい剤の軍事使用|覚せい剤問題の歴史4

5、突撃錠、猫目錠―覚せい剤の軍事使用 前述のとおり、大日本製薬がヒロポンを発売したのは1941(昭和16)年で、同年12月には真珠湾攻撃によって日本は太平洋戦争に突入することになるのですが、すでに日中戦争の戦線拡大によって国家総動員法[1] が敷かれており、国民経済は統制下に置かれていました。 医薬品の分野では、1941(…
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ペルビチンの発売|覚せい剤問題の歴史2

3 メタンフェタミン製剤ぺルビチンの発売 ドイツでは、1938年にテムラー製薬会社がメタンフェタミン製剤のペルビチン(Pervitin)を発売し、ドイツ、英国、フランスで特許を取得して国際市場での供給を開始しました。これは、1錠中に3ミリグラムの塩酸メタンフェタミンを含有する錠剤で、パッケージには「興奮剤」と表示され、「眠気防止に…
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元気の出る薬|覚せい剤問題の歴史1

震災以降、沈うつな空気に覆われているなかで、ブログの更新にも熱がはいりません。こんなときには、長期戦で続けている勉強をこつこつ進めていくに限ると、ここしばらく、覚せい剤問題の歴史と取り組んでいました。少しずつ集めておいた文献を読み、メモを作り、毎日コツコツ・・・。 ようやく形になり始めた学習メモを、すこしずつ掲載していきます。これは、…
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続・ナチス軍の覚せい剤|第二次大戦と薬物

第二次大戦下の日本軍では覚せい剤(メタンフェタミン)が使用されていましたが、同じ時期に、ナチスに支配されていたドイツ軍でも、メタンフェタミン製剤が、前線の兵士に支給されていたといいます。 SPIEGEL online 2005年6月5日付け「ナチスの死のマシーン―ヒトラーの薬物兵士たちThe Nazi Death Machine:Hi…
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ナチス軍の覚せい剤|第二次大戦と薬物

覚せい剤(メタンフェタミン)が、第二次大戦下の日本軍で、軍需物資として使われていたことは、よく知られています。当時、錠剤タイプのメタンフェタミンやアンフェタミン製剤が製薬会社によって販売され、一般にも広く使われていましたが、戦況が激化するにつれ、こうした製剤が「突撃錠」「猫目錠」などと呼ばれて、前線の兵士や軍需工場で働く人たちに支給され…
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戦後のけし栽培|植えてよいけし、悪いけし8

●第二次大戦終戦とけし栽培 1945(昭和20)年9月、日本はポツダム宣言を受諾。10月2日には敗戦国日本へ連合国軍が進駐を開始します。連合国最高司令官総司令部の覚書に基づいて発せられた一連のポツダム命令のなかには、戦後日本の麻薬政策に関するものも多数含まれています。 日本は、当時の国際社会で麻薬の問題国家とみなされており、日本占領…
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戦前のけし栽培|植えてよいけし、悪いけし7

●第一次大戦時のモルヒネ輸入途絶 明治末ころには、年産10キログラムを割り込むところまで落ち込んだ国内産あへんの生産が、ふたたび脚光を浴びるようになったのは、大正3年からです。 第一次世界大戦が始まった1914(大正3)年、日独開戦によってドイツからの輸入が途絶し、薬品、化学品の多くが影響を受けました。なかでもモルヒネ、コデインなど…
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明治期のけし栽培|植えてよいけし、悪いけし6

1878(明治11)年、薬用阿片売買並製造規則が制定されたことにより、あへんを採取するためのけし栽培が免許制になりました。その後、明治30年には(旧)阿片法が制定され、国によるあへんの専売制度は定着していきます。免許によってけしを栽培する農家は、生産したあへんをすべて国(地方庁)に売り渡すよう定められています。一見すると、売り先の不安が…
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死刑の主張|薬物犯罪に対する罰則強化の流れ2

昭和38年の麻薬取締法改正の大きな眼目のひとつが、罰則の強化でした。昭和30年代、ヘロインを中心とする麻薬取引が暴力団の資金源となっていることが問題視され、この動きを封じるためにも、罰則の引き上げが要求されたのです。当時の世論には、麻薬禍を一気に解決するために、厳罰をもって臨むべしとする機運があったようで、それを代表するのが、「麻薬事犯…
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昭和38年の麻薬の罰則強化|薬物犯罪に対する罰則強化の流れ1

大麻の栽培について予備罪を適用のニュースから出発して、薬物の輸入事犯に対する罰則強化の歴史について、いろいろと調べ始めました。予備罪を適用することの是非について、コメントも寄せられていますが、ここでは、薬物輸入に対する罰則強化の流れについて、もう少しマクロな視点から眺めておきたいと思います。 大麻取締法は、第24条で大麻の栽培、輸…
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世界大戦とあへん・麻薬15|日本人と薬物、150年の戦い

●日本人に広がる麻薬中毒 「華北に於ける麻薬秘密社会の実体」から、中国におけるヘロイン等麻薬の影響をみていきます。まず著者は、1943年春の北京市では、路傍の変死人と窃盗の激増が話題になったと伝えます。 市の社会局は変死人は1日2、30人と記録していたが、実際には100名以上であり、その90%までが麻薬いん者(中毒者)であった。…
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世界大戦とあへん・麻薬14|日本人と薬物、150年の戦い

●麻薬犯罪組織の形成と巨大化 1920年代、日本で生産されたモルヒネやヘロインが中国に密輸されていることが、国際社会で非難を浴びた時期がありました。当時、ジュネーブで国際連盟事務局長の任にあった佐藤尚武は、概略次のように言っています。 わが国では届け出だけで膨大なモルヒネ、コカインなどを製造することができたため、これを中国に輸出した…
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世界大戦とあへん・麻薬13|日本人と薬物、150年の戦い

●日本による毒化政策 蒙疆産あへんは、その生産量のほとんどが華北、華中へ配給されました。華北は北京を中心とした地域、華中は上海を中心とした地域です。日本がもたらしたあへんによって、これら地域にどんな状況が生じていたのか、江口圭一『日中アヘン戦争』岩波新書(1988)は、東京裁判の検察側書証を引用しながら、各地の様子を伝えています。 …
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