危険ドラッグ対策レビュー・16

「危険ドラッグ対策レビュー・15」 2015/09/26 からの続きです。
前記事http://33765910.at.webry.info/201509/article_10.html
*****

⑵ 危険ドラッグ供給者たち
 今次の流行期において、日本で危険ドラッグが流通し始めたのは2008年ころからですが、この間、危険ドラッグ販売に関わった人たちの実像は、いまだに解明されていません。現時点では、日本で危険ドラッグが販売されていた時期に、その供給・販売に関わった人たちに関して信頼に足る資料はほとんどなく、極論すれば、語れることは何もないというのが正確なところです。しかし、後に伝えるべき情報の一端として、以下に、危険ドラッグ市場を観察してきた私の私見を述べておきたいと思います。
 私は、今次の流行期において、日本の危険ドラッグ市場は、次のように、大きく4段階で変化してきたとみています。
■助走の時期・・・・・・2008年ころから2011年夏
ヨーロッパで流行し始めた新しい「合法ドラッグ」が、一部の愛好家によって日本に個人輸入され、やがてヘッドショップなどを通じて販売され、次第に日本の市場が広まり始めました。
■急速な拡大期・・・・・2011夏~2012年夏
「合法ハーブ」を前面に打ち出して販売する専門店が出現し、瞬く間に全国の都市部に同じような店が開設されました。
■一進一退の時期・・・・2012年夏~2014年夏
 青少年の健康被害が急増したことから取締まりが強化され、販売店の増加に歯止めがかかりましたが、当局と業者側のイタチごっこはますますエスカレートし、一進一退の状態が続きました。
■急速な衰退期・・・・・2014年夏~
 2014年6月、池袋駅前で暴走事件が発生、危険ドラッグに対する社会の非難が急速に強くなり、政府主導の緊急対策が動き出しました。販売店に対する一斉立ち入りや検査命令の実施など、徹底的な取締まりが行われた結果、2014年末までに、主要販売店はほぼ壊滅状態となりました。
 危険ドラッグ市場では、製造業者も販売業者も流動的であり、頻繁に交代を繰り返しているように見えます。各時期の市場の変化に沿って、そこで活動した業者たちの動きを追ってみたいと思います。

①助走の時期をけん引したヘッドショップ
・・・・・・・・・・・・2008年ころから20011年夏
 今次の流行期、ヨーロッパで広まっていた危険ドラッグが日本に流入し始めたのは2008年ころからで、当初は、愛好家が個人輸入などの形で入手した危険ドラッグが、インターネットのオークション・サイトで販売されていましたが、やがて販売の主力はヘッドショップ(店舗及びインターネット・ショップ)に移っていきました。
 日本では、1990年代の末ころ、ヘッドショップを名乗る店が現れて「合法ドラッグ」を販売し、当時拡大していた危険ドラッグ第一波の流通網の一部をなしていました。しかし2007年に指定薬物制度が導入され、危険ドラッグの第一波が沈静化した後、こうした販売店での薬物販売は目立たないものになり、ヘッドショップの存在感も薄れていきました。
 ヘッドショップが再び社会の注目を集めたのは、2008年ころ、室内栽培用に品種改良された大麻の種子に対して社会の非難が高まった時でした。欧米では、2000年代前半ころから、医療用大麻として認可された自己栽培の需要に応じるために、ヘッドショップの一部は大麻栽培関連商品の取り扱いを強化し、栽培用品専門店へ特化する例もあったのですが、こうした時流の影響を受けて、日本のヘッドショップも大麻栽培関連商品を取り扱うようになったものでしょう。しかし、医療用途などに大麻栽培を認可する制度のない日本では、大麻種子の販売は違法な大麻栽培に直結するおそれが強く、やがて警察庁はこうした大麻種子の販売に対して厳しく取り締まる方針を示し、販売業者は急速に大麻の種子販売から手を引き始めました。
 それと入れ替わるように、新たな販売品目として登場したのが、このころヨーロッパで急速に広がっていた、新しいスタイルのドラッグです。
 ヨーロッパでは、2008年ころから新たな流行の波が広がり、「スパイス」などのハーブ系製品や、パーティピルズと呼ばれるケミカル系の製品が盛んに出回っていましたが、その販売の中心となってきたのがヘッドショップで、危険ドラッグ市場の拡大とともに、ヨーロッパ各地で、ヘッドショップの急増がみられました。
 日本のヘッドショップ業者たちは、この流行に素早く反応し、しばらく沈静化していた日本の危険ドラッグ市場が、にわかに動き出しました。英国などで「リーガルハイ(合法ドラッグ)」と呼ばれていた多様なドラッグ製品・・・MDMAの合法版と受け取られていた多様な錠剤タイプのものや、コカインの合法版として広まった興奮系の粉末製品、大麻の合法版として急速に人気を獲得していた「スパイス」タイプなど・・・が個人輸入されて、出回るようになったのです。ただし、当初はあくまでも限定的な販売ルートでの動きであり、一般への影響力はまだ限られたものだったといえるでしょう。

②「合法ハーブ」専門店の登場と急速な市場拡大
・・・・・・・・・・・・・・・2011夏~2012年夏
 2011年ころ、日本の危険ドラッグ市場は、急速な拡大期に入りました。当時、様々な危険ドラッグが流通していたなかで、「スパイス」に代表されるいわゆるハーブ系製品を大きく打ち出し、「合法ハーブ専門店」と銘打って若者を中心とした新たな顧客層にアピールする店が、各地に出現し始めたのです。それまで、ヘッドショップが取り扱う多様な商品の一群だったものが、販売店の主役に躍り出たのです。
 商品は「ハーブ」「アロマ」などと呼ばれました。輸入雑貨店のような明るいイメージの店舗も現れ、若者が集まる繁華街や駅前商店街、住宅地の一画にまでこうした販売店が店開きするようになりました。
 この時期の危険ドラッグ販売業には、従来から「合法ドラッグ」を扱ってきたヘッドショップ経営者に加えて、新たな事業者も新規参入していたと思われます。危険ドラッグ販売に新たに参入したなかには、アダルトビデオ販売などいわゆるグレーゾーンで商売をしてきた人なども見受けられ、また後年の摘発例では、ラーメン店の経営者が副業として危険ドラッグ販売店を経営していた例なども報道されました。
 2012年春までは、危険ドラッグ販売店に取締まりの手が及ぶことは少なく、新規店舗は売り上げを伸ばし、次々と系列店舗を開設しては営業エリアを拡大していきました。なかには、全国の主要都市に系列店を展開する業者もありました。

③取締まり強化と一進一退の攻防
・・・・・・・・・・・・・・・2012年夏~2014年夏
 みるみる日本全国に拡大した危険ドラッグですが、その急速な拡大も2012年春ころには拡大ペースが減速し、その年の夏ころには頭を打ちました。販売店の拡大とともに、各地で危険ドラッグを使用した青少年の健康被害が急増し、当局が対策に乗り出したのです。それまで「野放し」といわれる中で、思うままに営業を拡大してきた危険ドラッグ販売店は、警察や薬務当局による取締まりに直面するようになりました。 
 また、危険ドラッグに対する一般のイメージも次第に変化し始めました。当初は「ハーブ」「合法」といった言葉でカモフラージュされていた、危険ドラッグの有害性が広く認識されるようになり、それとともに、社会の批判的な目が向けられるようになりました。
 販売店に対する風当たりも強くなり、一般人の生活圏にまで出店していた販売店は、次第に歓楽街や商業ビルの高層階へと追いやられるようになりました。このころから、危険ドラッグ販売店の経営実態は、いっそうグレーな色彩を深め、実態のない人物の名義を借りて登記上の代表者にし、店舗の賃貸借契約の名義人に仕立てたケースも多数あったといいます。
 市場の拡大がとまった途端、販売業者の生き残り合戦が激しくなったとみてよいでしょう。販売業者は、利益を確保するために国内生産品を導入し始め、やがて販売品の主力が国内で調合・製品化された品物になりました。また、新規顧客が減って固定化し始めた購入者の好みに応じるために、配合される薬物はより強力なものが使われるようになりました。販売業者のなかには、自ら原材料を輸入して加工した製品を販売したり、他の販売店に卸売りする業者も現れました。
 当局と販売業者のイタチごっこはますますエスカレートしました。このころから指定薬物への指定が加速化し、2013年早々には合成カンナビノイドの有力グループに対してわが国では初めての包括指定も導入され、法規制の網は拡張されましたが、これに対抗して、販売業者の側も次々と使用成分を切り替えては、「未規制」薬物を販売し続けました。
 次第に体制を強化する取締まり側と、摘発を逃れようとする業者側の一進一退の攻防戦は、2012年夏ころから2014年夏ころまでおよそ2年にわたって展開されましたが、その間にも、次第に追い詰められていく市場をめぐって業者間の競争は激化し、多くの業者が脱落しました。しかし、そのいっぽうでは、撤退した販売店の関係者が製造グループに加わったり、卸売業者として製造グループと販売店の仲介をしたりといった動きもみられました。

④急速な衰退から壊滅状態へ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2014年夏以降
 決め手を欠いたまま当局と販売側の攻防が続くなかで、2014年6月、池袋駅前で危険ドラッグ使用者が車を暴走させ多数人が死傷した事故が契機となって、社会の危険ドラッグ非難は一気に燃え上がりました。世論の高まりを受け、政府主導の集中的な取締まりが行われて半年、同年末には危険ドラッグ販売店はほぼ壊滅状態となりました。その詳細は本稿の冒頭ですでに述べたので、ここでは割愛します。
 販売店に対する集中的な取締まりが開始された8月時点で、危険ドラッグ販売店は100店舗程度にまで減少していましたが、その後4か月ほどの間にほとんどが廃業し、2014年末には国内の危険ドラッグ販売店はわずか数店を残すのみになりました。
 しかし、店舗を閉鎖した業者のなかには、顧客からの注文に応じてデリバリー販売をしたり、インターネット販売に転向したものもあったとみられています。
 興味深いのは、急速に市場が縮小する過程で、追い詰められた業者の営業網を吸収して寡占化を進めたグループもあったことです。2015年6月に警視庁に摘発されたグループは、インターネット上で危険ドラッグを販売していましたが、実店舗への取締まりが厳しくなるなかで、他のサイトを次々と買収し、6サイトを運営し、当時の国内最大勢力をなしていたと報じられました(読売新聞「危険ドラッグ、サイト摘発…販売『国内最大』」2015年06月10日)。

⑶ 調達ルートの変化
 危険ドラッグ市場の変化は、製品や原材料の流通にも大きな変化をもたらしました。当初は、原料の調達、製品の流通から販売までが、比較的少数の危険ドラッグ販売業者の手で行われていたのですが、わずか数年のうちに製造業者や輸入業者などに分業化していったのです。
 しかし、この領域も資料が乏しく、具体的に論証することができませんが、前項と同じく、わずかな情報と私の観察に基づいて、大まかな流れをまとめておきたいと思います。

①インターネットを通じた原料調達
 日本で危険ドラッグ市場が顕在化し始めたころには、欧米市場で流通している危険ドラッグ製品が輸入され、そのまま国内で販売されていました。このころ、日本の販売業者が危険ドラッグ製品を調達するルートは、インターネット上に展開する欧米系の危険ドラッグ販売サイトが主力でした。
 現在では、各国での危険ドラッグ対策が進展し、インターネット販売への取締まりも行われるようになったため、危険ドラッグ販売サイトも減少傾向にありますが、2010年ころには多数の販売サイトが稼働していました。なかには「卸売」として大量注文に応じるものもあり、こうしたものが主に利用されていたのではないかと思います。
 しかし、2011年ころから急速に市場が拡大するにつれ、商品の需要も一気に拡大し、販売用に危険ドラッグを調達する手法にも変化が生じ、この頃から、一部では、原料を輸入して国内で調合・製品化することも行われるようになったようです。
 当時、原料化合物の入手に最もよく使われたのは、中国系のビジネス仲介サイト(英語版)でした。こうしたサイトは、中国の製造会社や加工会社の製品を世界の需要家に直接売り込む手段として人気を集めていましたが、そこで紹介される多様な製品のなかには、危険ドラッグ原料も含まれていました。大手の仲介サイト上には、危険ドラッグ原料に使われる化合物のメーカーをはじめ、ラミネート製のパッケージ、計量器や包装シーラーといった機器の専門会社までが並び、危険ドラッグ製造に必要な材料から設備まで、一式を調達することが可能でした。また、一部には、注文に応じて危険ドラッグを調合し、袋詰めした製品を供給する会社もありました。
 しかし、こうした仲介サイトはあくまで注文先会社を紹介する場で、実際の取引は、買い手が中国の会社と直接交渉する仕組みだったため、全く経験のない人がこうしたサイトを利用するのは難しかったかもしれません。初期には、事情に通じた仲介者が活動することもあったことでしょう。
 その後、国内での調合・製品化が大きく進展したのは、「リサーチ・ケミカル(研究用試薬)」販売を名乗るサイトがインターネット上に多数出現し、次々と新型の化合物を提供し始めたことに、負うところが大きいと思います。
 従来の危険ドラッグ販売サイトが調合済みの製品を販売するのに対し、こうした「リサーチ・ケミカル」のサイトは、原料化合物そのものを販売するのが特徴です。主力は一般ユーザーへの販売で、化合物の種類によって0.5~数グラム程度の少量単位で販売しているのですが、100グラムや1000グラムといった単位での販売も行い、実際、大容量では割安で購入できるようになっています。注文は、通常のインターネット販売と同じく、サイト上で注文し、クレジットカードなどで決済する仕組みです。
 こうしたサイトから原材料を調達することが可能になってからは、危険ドラッグ製造は誰にでも手の届くものになりました。じっさい、これまでに危険ドラッグの輸入や製造に関与したとして検挙されたのは、薬物や化学品について経験や専門知識をもたない人がほとんどでした。
 
②複雑化した流通ルート
 未規制の成分であれば、危険ドラッグの製品や原料を輸入することは、薬物取締まりに直接的に抵触しないため、初期には、危険ドラッグ販売業者は警戒心を持たずに、自ら製品や原料を輸入し、調合・製品化していました。
 しかし、やがて取締りが厳しくなり、輸入した製品や原料に麻薬が含まれていたことから、業者が摘発されるといったケースも増えたため、販売業者は輸入から手を引き始めました。また、市場の拡大とともに調達量が増えたことも、輸入の手段に変化をもたらす要因になったことでしょう。
 やがて、原材料を輸入し、これを調合して危険ドラッグ製品に加工する、製造業者が動き始めました。当初は、販売店の下請けといった立場で動き始めた製造業者は、危険ドラッグ市場の拡大とともにその営業を拡大していきます。2013年11月に摘発された、東京練馬区内の製造業者の場合は、1年間で15億円近く売り上げていたといわれ、2014年7月に摘発された千葉県の製造拠点からは、さらに大量の原料や加工済み製品が押収されたといいます。
 さらに、製造業者の周辺では、原材料の輸入を主に請け負うグループが活動し、製造業者から製品を買い取って販売業者に売り渡す卸売業者も登場して、分業化も進みました。しかも、その手段は次第に複雑になり、巧妙化していったのです。後年の摘発例で明らかになった手口をいくつか列挙してみましょう。
 たとえば原材料を輸入するにあたっては、複数の受取人名義を使い分けたり、輸入審査の比較的ゆるやかな第三国を経由して、日本に持ち込むといった例もありました。また、製造業者の例では、人目につかない地方の倉庫などを製造場所に選び、数か月単位で製造拠点を移転していたという例もありました。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック