シャブ時代の開幕|覚せい剤密輸の半世紀3

覚せい剤密輸の半世紀を振り返る連続記事です。
前記事は
ヒロポン時代の終焉|覚せい剤密輸の半世紀2 (2014/03/28)
http://33765910.at.webry.info/201403/article_13.html

第1章 密造から密輸へ・・・1970年代~

1、シャブの時代の開幕
 1958(昭和33)年、覚せい剤事犯の検挙者は271人にまで減少し、戦後の混乱期に始まったヒロポン乱用はここで一応の終息を迎え、その後10年あまりにわたって、覚せい剤に関しては平穏な状態が続きます。この間に、都市労働者にヘロイン乱用が広まったり(昭和30年代)[11] 、青少年を中心とした睡眠薬乱用が広まるといった動きがあり(昭和30年代後半)[12] 、また覚せい剤に代わってスパL[13]などの薬物の乱用がみられましたが、いずれも、比較的短期間で終息しています 。
 しかし、ひとたび封じ込められた覚せい剤乱用は、再び増加に向かい始めます。覚せい剤事犯の検挙者は、1965(昭和40)年ころから漸増し始め、1970年以降は加速度的に増加し、わが国の覚せい剤市場は第二次乱用期に突入したのです。
 第一次の乱用期を「ヒロポンの時代」とすれば、第二次乱用期は「シャブの時代」と呼ぶことになるでしょう。沈黙の10年を超えて再び活発化した覚せい剤は、「ヤク」や「シャブ」と呼ばれ、以前とは明らかに異なる性格を帯びていました。
 第一に、密売される覚せい剤の形状が変わりました。ヒロポンの時代には、密売品の大半はアンプル入りの覚せい剤水溶液でしたが、シャブの時代には、粉末状での供給が次第に増加し[14] 、やがて覚せい剤といえば「白い粉」というイメージが定着していきます。下の表は、昭和49年版犯罪白書に掲載されたものですが、急速に粉末状の覚せい剤押収が増えている様子が分かります。
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↑覚せい剤・同原料の押収状況(昭和44年~48年)
昭和49年版 犯罪白書 第3編/第2章/第2節/2より転載

 
 第二に、犯罪イメージを濃厚にしたことが挙げられます。ヒロポンの時代には、当初は薬局で市販されていた覚せい剤は、規制後も、今日の脱法ドラッグや処方薬のような感覚で日常生活に入り込んでいました。ところが、1954(昭和29)年ころから、警察は取り締まりを強化し、また、全国で啓発活動を展開して、覚せい剤乱用を抑え込んだころから、日本社会には覚せい剤に対する忌避感が根を下ろしたのでしょう。さらに、シャブの時代には、覚せい剤の密造、密輸、密売が暴力団の手で行われるようになったことによって、犯罪の色彩がさらに強くなりました。
 そして第三として、シャブの時代に突入して間もなく、国内での覚せい剤密造が下火になり、アジアの近隣国に設けられた密造拠点から、覚せい剤が密輸されるようになったことが挙げられます。以降、今日に至るまで、わが国で出回る覚せい剤のほとんどが外国から密輸される状態が続いています。

2、国内密造の動き 
 第二次乱用期を迎えたころ、まず注目されたのは、国内での覚せい剤密造が活発化し始めたことですが、そこには暴力団の影がありました。昭和50年版警察白書は、「従来の覚せい剤密造事犯は、密造前歴者や化学的知識を有する薬品会社職員等によって行われていたが、最近では暴力団自身が薬学書等を購入して製造方法を研究し、覚せい剤を密造しようとする傾向等がみられる[15] 。」と記載しています。
 このころの警察白書には、暴力団が密造に関与したケースが、[事例]として取り上げられているので、かいつまんで紹介します。
①昭和49年・栃木
 暴力団組長が、配下の組員や元製薬会社の職員等を使って、薬局等から覚せい剤原料やかぜ薬を大量に買い集め、民家の作業小屋に「公害防止技術センター」の看板を掲げ、覚せい剤5,300グラム、同原料2,500グラムを密造し、これを東日本一帯の暴力団仲間に密売した[16] 。
②昭和49年・兵庫
 暴力団員が、ギャンブルによる多額の借金の返済と組織における自己の地位の強化のために覚せい剤の密造を企図し、薬局等から覚せい剤原料を買い求め、薬学書を頼りに自宅において密造しようとした[17] 。
③昭和49年・埼玉
 暴力団組長が、薬剤師等を雇って、問屋からせき止め薬を大量に買い集め、覚せい剤原料を抽出し、これを原料として、埼玉県内の借家等6箇所において覚せい剤12キログラムを密造させ、これを関東一円の暴力団仲間に密売した[18]。
④昭和51年・東京
 金融業者等が、密造技術を持つ暴力団員と共謀して、市販のせき止め薬を大量に買い集め、神奈川県内の海浜別荘等9箇所において、せき止め薬から塩酸エフェドリンを抽出した上、覚せい剤3.4キログラムを密造し、これを関東地方を中心に暴力団に密売した[19]。
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↑覚せい剤密輸、密造事犯検挙人員
昭和49年版、昭和52年版犯罪白書のデータに基づいてグラフ化

 このころの密造には、密輸されたエフェドリンのほか、漢方薬として輸入された麻黄から抽出したエフェドリンを使用した例もあります。また、上記の事例にもあるように、市販の風邪薬、鎮咳薬などからエフェドリンを抽出して原料に用いたケースが、年間20件ほど摘発されていたといいます[20]。
 活発に動き始めた国内での覚せい剤密造ですが、作業に悪臭がともなうため密造場所が限られるうえ、警察による摘発が相次ぎ、またエフェドリンを含有する市販薬の規制などにより、1977(昭和52)年ころを最後に国内での摘発は姿を消し、代わって外国から密輸される覚せい剤が供給の主力になりました[21]。

出典
[11]昭和54年版警察白書は、昭和30年代のヘロイン流行について、暴力団が新たな資金源としてヘロインを密売し始めたことや、かつての「ヒロポン」の乱用者がヘロインの使用へと移行したため、32年ころから急速な拡大が始まったが、法改正などにより39年ころには鎮静化したとしている。
[12]昭和39年版犯罪白書、第四編/第一章/二/5(1964)は、「睡眠薬をもてあそぶ少年たちが、警察の補導線上に現われたのは昭和三五年の五、六月頃、・・・警察庁で、昭和三七年一月から五月までの間に、全国から報告を求めた睡眠薬服用少年の補導数は一、六六五人」としている。
[13]鎮痛薬、覚せい剤の代用品として昭和30年代に乱用された。
[14]昭和49年版犯罪白書 第3編/第2章/第2節/2は、「最近の覚せい剤事犯は,その対象がかつての液体中心に比べ,粉末中心となっているのが特徴的である。」と指摘している。 
[15]昭和50年版警察白書 第5章 生活の安全と環境の浄化
[16]昭和50年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[17]昭和50年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[18]昭和51年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[19]昭和52年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[20]中島治康「戦後の日本における薬物乱用防止対策」警察学論集41巻8号34-50頁、1988
[21]島田尚武「『シャブ時代』における覚せい剤問題の全般的概況」警察学論集31巻7号9~10頁、1978

続く

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