ヒロポン時代の終焉|覚せい剤密輸の半世紀2

現在、日本の乱用市場に出回る覚せい剤のほとんどは、外国で密造され、不正な手段で密輸されたものです。
最初は国内で密造されていた覚せい剤が、外国から密輸されるようになったのは1970(昭和45)年ころのことで、それ以来およそ半世紀にわたって、日本の乱用市場は、もっぱらアジアの近隣国からの覚せい剤を受け入れながら拡大し、成熟してきました。いっぽう、視点を変えるなら、この半世紀は、日本の覚せい剤マーケットが、近隣国に供給拠点を拡散しながら、同時に各地に覚せい剤乱用を広げてきた軌跡でもあるのです。
いま、日本に運び込まれる覚せい剤は、アジア近隣国の枠を超えて、地球規模で密輸され始めています。そして供給網の拡張にともなって、その産地も、密輸を取り仕切る組織も、大きく変貌しようとしています。その変わり目を前にして、あらためて、覚せい剤密輸の半世紀を振り返ってみようと思います。

覚せい剤密輸の半世紀

序章 ヒロポン時代の終焉・・・1950年代~

1、国内密造の鎮静化
 1951(昭和26)年、当時はヒロポンと呼ばれていた覚せい剤を規制する覚せい剤取締法が制定され、それまで製薬会社によって製造され、薬局を通じて販売されていた覚せい剤の製造・流通が原則として禁止されました。しかし、その後も、違反者の検挙は増え続け、「違法」となった覚せい剤取引は地下へ潜り、密造・密売されるようになり、やがてその過程に暴力団が深く関与するようになっていきます。
 1954(昭和29)年、覚せい剤事犯の検挙者が55,000人を超える事態に至ったことから[1] 、対策の強化が求められ、翌年には内閣に「覚せい剤問題対策推進中央本部」が設けられました。
 覚せい剤取締法は相次いで改正が行われ、1954(昭和29)年に罰則が引き上げられ、翌年には、密造対策として覚せい剤原料を規制する規定が加えられました。
 また、法改正と並行して、警察による取り締まりも大幅に強化されました。1954(昭和29)年10月、警察庁は覚せい剤事犯の取締強化に関する通達を全国各公安委員会に対し発し、対策の強化を推し進めることになりますが、ここで重点とされたのが、「覚せい剤事犯の根源となっている覚せい剤及び覚せい剤原末材料の密造、密売、密輸入事犯並びに営利の目的叉は常習として敢行せられる覚せい剤事犯等悪質事犯[2] 」で、集中的な取り締まりが行われた結果、1954(昭和29)年10月から12月の3か月間に、密造事犯として400件・697人が検挙されています[3] 。
 警察の徹底的な摘発によって、密売市場に出回る覚せい剤は目に見えて減少し始め、1958(昭和33)年には、覚せい剤取締法違反の検挙者はわずかに271人と、ピーク時の実に0.5%にまで減少し、蔓延していたヒロポン禍もようやく鎮静化をみることとなりました。
画像

↑覚せい剤取締法違反による検挙人員の推移
平成25年度版犯罪白書(CDロム版4-3-1-1図)に基づいて私がグラフ化したもの

2、当時の密造ヒロポンとは
 当時、ヒロポンと呼ばれて出回っていたものは、アンプル入りの注射剤が中心で、乱用者の多くは、この水溶液を経口使用したといいます。
 現在、覚せい剤として出回っている結晶状または粉末状のものは、この頃は覚せい剤原末と呼ばれていました。初期には、主に製薬ルートからヤミに流れた錠剤や散剤タイプの覚せい剤が使われましたが [4]、やがて、エフェドリン等を原料に本格的な密造が行われるようになり[5]、密造原末として供給されるようになりました 。
 当時の国会委員会での警視総監の発言に、覚せい剤原末の密造実態がよく表れています。「つくる方法としましては、御承知のように白金または銀を触媒としてエフェドリンから製造する製造方法としてはこれが一番簡単でございますので、これによって原末をつくつて、蒸溜水または水に、一定の割合で混じて、自家製のアンプルに溶閉して、これをレツテルも張らずに流してしまう。もう一つのは、フエニル醋酸、塩化ベンゼル、青化ソーダなどの混合薬品を原料として、これらの化学的操作によって製造するものでございます。ただこの方法は相当技術的な知識を要するのでありまして、原末密造につきましては前者の方法をとる方が簡単でありますので、当庁で検挙した原末密造六件のうち前者の方法によるものが四件、後者の方法によるものが二件ということになっております[6] 。」
 昭和29年には覚せい剤取締法に、覚せい剤原末の密造対策として、エフェドリンなどの覚せい剤原料に対する法規制が盛り込まれましたが、規制開始後にはエフェドリンの密輸事犯が増加したといいます。
 いっぽう、原末を入手して、水で溶いて覚せい剤液を調整し、アンプルに詰めるのが、「アンプル屋」と呼ばれた密造者の仕事でした。当時の国会委員会では、こうした密造者の姿が次のように伝えられています。「新聞に出ている、普通密造としてあげられている連中は、そういうもの(密造された原末)を買って来まして、それを水に溶いてアンプルへ詰めるという仕事をやっておるのであります。これはごく簡単に、それこそ裏長屋の三畳でも戸だなの中でも、アルコールランプさえあればできるので、これがたいていあげられる[7] 。」
 警察による密造摘発の対象となったのも、ほとんどは、こうしたアンプル詰めを行う密造者でした。古い裁判例に残された覚せい剤密造事件から、当時の覚せい剤密造の姿を拾い出してみましょう。
 昭和27年9月に東京地裁で審理されたなかに、足立区内の自宅で、約3か月間で2万本のアンプル入り覚せい剤を製造し、その後の20日間には知人宅で約5000本を製造したという事件があります。覚せい剤の製造と所持で起訴された被告人は、懲役8月及び罰金2万円を言い渡されました[8]。
 同年11月に、覚せい剤入りアンプル約1万3000本を製造したとして、東京高裁で判決を言い渡された男性の事件では、判決は事件の経緯について「被告人は朝鮮人のAより粉末たるフエニルメチルアミノプロパン一〇瓦(著者注・グラム)を買受け溶器、蒸溜水、濾紙を使用してこれを溶解濾過した上アンプルに充填溶閉して・・・覚せい剤一立方糎アンプル約一万三千本を作出したものである」と記載しています[9] 。
 また、昭和31年9月の大阪高裁判決に、没収手続の関係から、覚せい剤密造事件での押収品が詳しく記載されているものがあります。判決文に列記された押収品の中から、覚せい剤原末などの原料とおぼしきものを拾ってみると、メチルプロパン粉末約三百瓦、茶色底角封筒入粉末七袋、覚せい剤粉末約五百瓦、白色結晶若干、覚せい剤錠剤約三百五十個、同粉末約二十瓦、茶色底角封筒入覚せい剤粉末一袋、白色粉末包九包、覚せい剤粉末約六瓦、白色粉末七包、塩酸プロパミン粉末約十瓦、原粉末若干、覚せい剤原末十袋、白色粉末一包、覚せい剤原薬約三〇瓦と多種多様な粉末が押収されています[10] 。おそらく、様々な手段で入手した原末のなかには、製薬ルートから流出したものや、密造されたものが混在していたのでしょう。

出展
[1]1959年の覚せい剤事犯検挙人員は55,664人となり、乱用はピークに達した。
[2]近藤光治「覚せい剤事犯の回顧と展望」、警察学論集8巻1号50頁、1955
[3]中島治康「戦後の日本における薬物乱用防止対策」警察学論集41巻8号、34頁以下、1988
[4]前注[3]書46頁
[5]前注[2]書は、「原末密造の方法にエフェドリンを原料とする外、化学合成物質を原料として、密造する者が多くなりつつある」としている( 頁)。
[6]昭和29年5月20日衆議院厚生委員会での田中参考人(警視総監)の発言
[7]昭和29年5月29日衆議院厚生委員会での林障参考人の発言
[8]東京地判昭27.09.18、D1-law24002205
[9]東京高判昭27.11.08、D1-law27680356
[10]大阪高判昭31.09.20、D1-law24004174

続く

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