ヒロポン国を亡ぼす|覚せい剤問題の歴史6

Ⅱ戦後の混乱とヒロポンの大流行

1、ヒロポン国を亡ぼす

私たちが知っている日本の覚せい剤問題は、1945(昭和20)年8月の第二次世界大戦終戦直後に、きわめて唐突な形で発生しました。覚せい剤問題を語るときしばしば引用される専門書は、その状況を次のようにいいます。
 「わが国の社会が初めて経験した深刻な薬物乱用は、戦後の覚せい剤乱用であった。敗戦による国民の精神的混乱と社会秩序の乱れを背景に、国民の間で覚せい剤が大流行した。旧軍隊が保持していた覚せい剤が闇市に流出し、在庫を抱えた製薬会社が大々的に覚せい剤を売り出したのが始まりであった。当時は『ヒロポン国を亡ぼす』と言われるほどの社会問題となった[1] 。」
最初に出回ったのは主に錠剤です。日本を占領していた連合国軍の指示で、軍が保有していた医薬品や衛生材料が民生用に放出されたほか、軍部や配給会社などから様々なルートで薬品などが闇市場に流出しました。また、これまで製造品のほぼ全量を買い上げてくれていた軍や軍需産業という納入先を失った製薬会社は、こぞって民間にこの薬を売り出しました。酒さえ満足に手に入らない混乱した社会で、薬局や闇市で誰でも手軽に入手できるヒロポンは、庶民の安価な息抜きだったといいます。

もう少し、当時の状況を伝える文章をひろってみましょう。
 「(覚せい剤は)軍需用として貯えられていたものが、戦後、まず、大量に放出されて、文士、芸能人、夜間従業者、接客婦などに愛好されるようになったが、当初は、まだ内服であった。ところが、戦後急速に流行した麻雀クラブやダンスホール、キャバレーなどに出入する人びとや、不良集団のあいだに本剤の使用が流行し、それにつれて注射薬も市販されるようになった。本剤の中毒患者は、わが国では、昭和二一年春頃から散発的にあらわれはじめたが、嗜好者は、その後、急速に増加している。(昭和35年版犯罪白書) [2]。」

「我が国で初めて薬物乱用が社会問題化したのは、終戦直後から昭和31年にかけて流行した『ヒロポン』等の覚せい剤の乱用であった。戦時中は、兵士や工員の士気高揚を目的として大量の覚せい剤が製造され、これが戦後における流行の契機になったといわれる。終戦直後は、夜間労働者、復員軍人、学生、芸能人、文筆家等が『ヒロポン』等を乱用し、また、これらの情勢に乗じて「除倦剤」等の名称で覚せい剤を製造、販売する業者が続出するようになり、覚せい剤禍が現れた。(昭和55年版警察白書「白い粉との戦い」)[3] 。」

巷に覚せい剤が氾濫するにつれて、やがて覚せい剤中毒者も目立ち始めます。早くも1946年(昭和21)年9月には、東大病院に最初の慢性覚せい剤中毒患者が入院し、ヒロポンのもたらす精神作用による弊害が表面化し始めたのです。1948(昭和23)年ころから、厚生省は対策に乗り出します。
折から戦後の医薬品行政の基幹となる(旧)薬事法(昭和23年7月29日法律第197号)の制定が進んでおり、まず、同法に基づく販売規制という形でヒロポン問題への対策がスタートしますが、問題はなかなか収まる気配をみせず、相次いで段階的な措置が講じられた後、1951(昭和26)年6月の覚せい剤取締法制定へと、規制策は進んでいくことになります。
  1948(昭和23)年 8月  覚せい剤を劇薬に指定
  1949(昭和24)年 3月  覚せい剤の表示書の変更
              5月  覚せい剤が「国民医薬品集」より削除され、注射剤以外の製剤の製造販売等の禁止
             10月  覚せい剤製造の自粛勧告
  1950(昭和25)年 2月  覚せい剤を要指示薬に指定
             11月  覚せい剤の製造中止を勧告
  1951(昭和26)年 6月  覚せい剤取締法の制定

当初は、販売者に対する指導を強化し、薬局などにおける販売活動を引き締めることに対策の重点がおかれました。覚せい剤が劇薬に指定されたことで、薬局は販売の都度、購入客の住所や署名などのある書面を作成し保管するよう義務付けられたのですが、購入者にとっては、ハンコを持っていけばいつでも買えるクスリであり、ヒロポンの入手がとくに困難になったわけではありませんでした。
そもそも戦後のヒロポン問題の根源は、過剰な覚せい剤が急激に市場に流出したことにあったわけで、やがて対策も、市場に流通する覚せい剤の総量を削減する方向へと移行していきます。最初の措置は、1949(昭和24)年5月、錠剤・散剤の製造を事実上禁止したことでした。その仕組みはやや複雑で、覚せい剤を「国民医薬品集」から削除して、公定書外医薬品とし、その製造については品目ごとに許可することとしたのですが、需要の大きかった錠剤・散剤について厚生省は、事実上許可を行わなかったのです[4]。簡単に言えば、覚せい剤の錠剤と散剤の製造に対して、事実上禁止措置をとったことになります。実は、このときに注射剤だけは別扱いになっていたことが、後になって、覚せい剤乱用の様相に思いがけない変化をもたらすのですが、これについては後述します。

当時、どれほどの量が製造され、また供給されていたのかを知る断片的な手がかりが、昭和25年12月の国会委員会の発言中にあります。覚せい剤取締法の制定に向けて議論が開始されたころの委員会で、政府委員(厚生省担当者)は、「医療上必要な量よりも遥かに多数の量のこの種製剤が市場に存在するということが、我々の調査によりましてわかりました」と答弁しているのです[5] 。ここで言及されているのは、昭和24年末ころの状況で、それまで主力だった錠剤および散剤の製造が禁止され、製薬会社が製造するのは注射剤に限定された時期のことですが、同年11月から12月にかけて行った調査によると、当時の注射液製造量は、月平均約7000リットル。いっぽう薬品販売業者が病院あるいは診療所に販売した量(医療上の使用量)は月1100リットルだったといいます。
月間7000リットルの注射液とは、2cc入りのアンプルに換算して約350万本の量に当り、仮にアンプル1本当り0.005グラム(5ミリグラム)の塩酸メタンフェタミンが含まれているとすると、塩酸メタンフェタミンの総量は毎月17.5キログラム、年間では210キログラムもの量が注射液に加工され、合法に販売されていたことになります。前述したとおり、この時期にはすでに錠剤・散剤の製造が禁止され、残る注射剤についても製造自粛の勧告がされ、製造される覚せい剤の総量が減少し始めていたのですから、最盛期の製造量はこの数字をはるかに上まわるものだったことでしょう。

出典
[1]福井進、小沼杏坪『薬物依存症ハンドブック』31頁、金剛出版、1996
[2]昭和35年版 犯罪白書 第一編/第二章/三/2
[3] 警察庁『昭和55年版警察白書』第2章/2/⑵
[4]この部分は、古田祐紀ほか「覚せい剤取締法」2頁、古田祐紀ほか編『大コンメンタールⅡ薬物五法』青林書院、1996 によりました。
[5]昭和25年12月5日 参議院厚生委員会 慶松一郎政府委員の発言(国会議事録)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント

ezisonn
2012年02月16日 01:32
200万人 推定
すごいですね 
みんな飲んだり売ってたんですね   知りませんでした
アンプルなら私もユンケル飲んでます 疲れたら

この記事へのトラックバック