戦後のけし栽培|植えてよいけし、悪いけし8

●第二次大戦終戦とけし栽培
1945(昭和20)年9月、日本はポツダム宣言を受諾。10月2日には敗戦国日本へ連合国軍が進駐を開始します。連合国最高司令官総司令部の覚書に基づいて発せられた一連のポツダム命令のなかには、戦後日本の麻薬政策に関するものも多数含まれています。
日本は、当時の国際社会で麻薬の問題国家とみなされており、日本占領と同時に、麻薬をすべて凍結し、押収し、今後二度と日本が麻薬に関わらないようにすることが優先事項とされたのです。連合国軍が麻薬と考えたのは、あへん、コカイン、モルヒネ、ヘロイン、大麻と、けしや大麻草などの植物やその種子です。コカの樹も含まれますが、当時日本国内で本格的に栽培しているコカの樹はなかったでしょう。繊維を採取するために全国で栽培されていた大麻草と、栽培が奨励されて作付けが増えていた、けしが対象となりました。

GHQ幕僚部9局が設置されたのが10月2日。それから10日後の10月12日には、「日本に於ける麻薬の生産並びに記録の統制に関する件」が発令されます。これは、国内にある一切の麻薬の移動や使用を禁じ、新たな麻薬の製造や輸出入を禁じるものですが、その第1項目は「麻薬の種子及び草木の植付、栽培を禁ぜらる、現在植付られ、栽培せられ居る此等のものは直ちに除去すべし、且つ除去せられし量、日時、方法、場所、土地の所有権を連合国軍最高司令部へ三十日以内に届出づべし」というもので、けしや大麻の栽培を中止して、栽培中のものはすべて除去して報告し、新たな栽培を禁止するというものです。
ただし、この命令は事実上無視されたようです。というのも、10月中旬といえば、あへんはすでに採取を終え、大麻草もちょうど茎の収穫期にはいるころです。命令の執行報告が届かないことにいらだつGHQに対し、日本側は、この時期にはすでに収穫を終えて、栽培されているものはないと報告したことが、GHQ側の記録に残っています。

GHQがとくに神経を尖らせていたのが、あへんです。しかし、日本が占領地を中心に大量のあへんを売買していたことや、日本人が関与するモルヒネやヘロインが中国各地で新しい乱用問題を広げていたことは、当時の日本国民にはほとんど知られていませんでした。国内でけし栽培が奨励されましたが、その目的は、あくまでも軍需物資として不可欠な医療用モルヒネを自給するためとされてきました。
ともあれ、その秋からけしの植え付けは禁止され、翌年からは畑一面に白い花が広がる光景は消えました。一般の日本人にとって[けし→麻薬→栽培禁止]という認識が出来上がったのは、GHQが栽培禁止命令を出して以降だといってよいでしょう。

●現行あへん法の制定とけし栽培の再開
占領開始から9年目、サンフランシスコ講和条約によって連合国軍との戦争状態も終結した日本にとって、解決を要する懸案事項のひとつが、あへんの輸入と生産の再開でした。一切の輸入と生産を禁止してきたため、国内保有量が残りわずかとなってきたのです。
1954(昭和29)年、現行のあへん法が制定され、あへんの輸入と生産(けし栽培)が再開されました。
あへんの輸入と生産、分配を管理する法令として、明治30年に制定された(旧)阿片法がありましたが、前述のポツダム命令によって阿片の輸入や、けしの栽培が禁止され、この法律は事実上効力を失い、その後1948(昭和23)年に麻薬取締法が制定された際に、廃止されていました。現行のあへん法は、(旧)阿片法が廃止された後、昭和29年に新たに制定されたことになります。

長い間禁止してきたけし栽培を再開するに当って、当時の政府は栽培農家の保護育成について、それなりに配慮した様子です。同法制定時の国会審議の記録をみると、「特にけし耕作者に対して播種前における収納価格の公告、モルヒネ鑑定前の概算払い及び災害補償等の制度を設けたこと」が強調されています。
明治以来、とかく政策によって翻弄されてきた上、連合国軍によって栽培を禁止され、国内でいっさいのけし栽培が行われなくなって10年近くが経過しています。農家の目には、けしはリスキーな作物に映っていたのかもしれません。

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