世界大戦とあへん・麻薬14|日本人と薬物、150年の戦い

●麻薬犯罪組織の形成と巨大化
1920年代、日本で生産されたモルヒネやヘロインが中国に密輸されていることが、国際社会で非難を浴びた時期がありました。当時、ジュネーブで国際連盟事務局長の任にあった佐藤尚武は、概略次のように言っています。
わが国では届け出だけで膨大なモルヒネ、コカインなどを製造することができたため、これを中国に輸出した。製薬業者が自ら輸出したものは少なく、転売を繰り返して中国に密輸出される。わが国では当局の取り締まりが手ぬるく、「監督の目をかすめて、いつのまにか、膨大な数量の麻薬が密売買に流れていき、その間に巨利を博する者が多く出てきたのであるが、大阪の何とかいう町の薬種商らは、みなこの密売に関係ありと称せられるほどであった。』(佐藤尚武『回顧八十年』199~200頁、時事通信社、1963)

それから20年、第二次大戦も末期に至ったころの中国では、モルヒネ、ヘロインなどの麻薬流通は、巨大なアングラマネーを動かし、犯罪組織を形成していました。当初の日本商人に代わって朝鮮人がその主役をつとめていましたが、相変わらず日本人の関与もあり、また日本の軍部による擁護、あるいは癒着もみられたようです。
『続・現代史資料12 阿片問題』に搭載された「華北に於ける麻薬秘密社会の実体」という資料は、1940年代の麻薬犯罪組織の状況を伝えています。この資料は、日本大使館嘱託による、1943(昭和18)年ころの調査報告書で、おそらく中国における戦時中の間片・麻薬の実体を伝える唯一の公文書であろうといわれるものです。

華北で麻薬密造が始まったのは1920年代。当時通州の唐山寺で2、3人の日本人が始めた麻薬の密造は、その利潤に高さからたちまち周辺に広まり、十数名の朝鮮人とこれに参加する中国人などが麻薬の秘密工場を持つに至りました。密造者たちはわずか数年で巨万の富を得て、秘密組織も急激に拡大していきました。
日支事変を契機に大陸に進出した朝鮮人のなかには、当初から麻薬の密造を志す者もあり、日本軍の侵攻とともに華北全域に進出し、麻薬を持ち運んでいました。日本軍のあるところ、いかなる前線の小都市でも朝鮮人密造者のいないところはなく、麻薬の密造、密輸送、密売に関係する者は1万2、3千戸、約6万名にのぼったといいます。
(渡辺寅三郎「華北に於ける麻薬秘密社会の実体」岡田芳政ほか編『続・現代史資料12 阿片問題』415~462頁、みすず書房、1986)

その背景にあったのは、日本統治下の朝鮮でけしの栽培が奨励され、大量のヘロインが生産されていたという事実です。
朝鮮では1938年に12,622エーカーの土地でけしが栽培され、1244キログラムのヘロインを生産。1939年にはけし栽培面積は16,622エーカー、ヘロインの生産は1327キログラム。そして生産されたヘロインの大半が満州国専売局を荷受人として輸出されていました。(江口圭一「解説/日中戦争とアヘン」江口圭一編『資料日中戦争期阿片政策―蒙疆政権資料を中心に―』18~19頁、岩波書店、1985)
もともと、朝鮮ではあへん煙膏を使う習慣は広まっておらず、日本内地と同じように、あへん問題のほとんど起きていない状態でした。それが、日本の占領下でモルヒネ、ヘロインの生産地として問題に巻き込まれていくことになります。モルヒネ製造の技術を持った日本人が中国へ渡って密造を始めたように、朝鮮半島からも中国へ渡って麻薬に関わる者が出ていたのです。

1934(昭和9)年の京城日報の記事に、こんな一文があります。
「●新規大事業の一満洲移民の具体化
最近河北に於ける朝鮮人は実に三千名の多数を超し、昨年に倍加する情勢を示している、何れも一定の生業なくヘロインの密売を主としたものでこの現象は逐年増加しこれを如何に処理するか重大問題であろう。」
京城日報 1934.4.11(昭和9) 新聞記事文庫 移民および植民(19-129)

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