清朝末期の中国とあへん―薬物と戦った100年 その8

国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』の第2章「国際的な薬物管理の1世紀」という特集を読みながら、国際協力による薬物コントロールについて考えます。
出典:国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』
http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2008.html

中国のあへん問題は、最初は、英国の対中国貿易収支の赤字解消策として始められた三角貿易によって、インドから中国に向けて、大量のあへんが輸出されたことから始まりました。清国政府は当初、あへんを厳しく取締り、度重ねて禁止令を出しますが、あへん使用は拡大するいっぽうで、やがて国内でのあへん栽培も増加し始めます。
清国政府は、あへん戦争や義和団の乱によって、欧州列強に対する領土の割譲を余儀なくされ、賠償金の支払いのために財政は逼迫していました。国内でのけし栽培に課税したのも、過大な賠償金支払いのためだったという見方もあります。
『2008年版世界薬物報告書』は「あへん使用者だけでなく、中央政府もまたあへんに依存していた(183ページ)。」といいます。清国政府は外国からのあへんと、国内産あへんの両方に課税し、あへんによる国税収入は、1906年には政府の年間収入の14%を占めていました。あへんは地方のレベルでも課税されており、この収入は1年あたり300万ポンドの価値があるといわれました。
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写真は国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』より

上海会議が開催されたのは、今から100年前の1909年。欧州列強がこぞってアジアに進出し、東南アジアのほとんどは植民地化されるか、列強の影響下にありました。上海会議の参加国の中心は、当時の東南アジア、東アジアで植民地経営をしていた列強諸国でした。日本は、1895年の日清戦争、1905年の日露戦争を経て東アジアへの覇権拡張を狙って国際社会での存在感を強めていた時期であり、上海会議にも名を連ねています。

上海会議は、各国でのあへん使用量に関する情報も収集しています。
中国は当時最大のあへん大国で、1350万人から2500万人(全人口の3.4%から6.3%)のあへん使用者がいると推定され、上海会議は最終的に2150万人(人口の5.4%)のあへん使用者という数字を採用しました。計算すると、使用者1人当たり1年間に1.4キログラムという、多量のあへん使用レベルになります。
比較検討されたのは、中国本土以外の地域に住む中国人の例です。たとえば、日本が統治していたフォルモサ(台湾)では、あへん使用は認可制で、使用者の実態が比較的よく掌握されていました。認可されたあへん喫煙者は、1900年では169,064人(全人口の6.3%)、1907年までには113,165人(3.7%)に減少しています。1897年から1907年では使用者1人当たり1年間に1.29㎏を消費していました。
アメリカ合衆国の中国人労働者(大半が成人男性で、総人員は118,000人)のあへん使用についても、調査報告があります。合衆国当局によると、中国人労働者の15%はヘビーユーザーで1人当たり1年に2.72㎏を喫煙し、また20%は少量喫煙者で0.68㎏、さらに10%が付き合い程度の喫煙者で28.35gを使用するということです。その結果、中国人労働者の45%があへん使用者で、1人当たりの平均的な年間の使用量は1.22㎏と推定されましたが、後に、労働者のうちあへん使用者の割合はもっと少なく、おそらく30%程度だと修正され、これによると1人当りの年間使用量は2kgを超える計算になります。

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