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みんなの「薬物乱用の歴史」ブログ


中国での覚せい剤密造 | 覚せい剤密輸の半世紀9

2014/05/11 16:48
2、中国大陸への密造拠点の移転
 1990年代初めころ、韓国や台湾は覚せい剤に対する取り締まりを強化し、国内での密造を制圧しました。覚せい剤供給の源泉を断ったことで、韓国や台湾では、拡大し始めた覚せい剤乱用問題が鎮静化し、わが国でも、密輸される覚せい剤が減少し、品薄状態となりました。一時的には、大成功をおさめたことになります。
 しかし、その裏では、密造グループの手で、中国大陸への密造拠点の移転が行われており、間もなく、新たな生産地から覚せい剤が供給され始めるのです。取り締まりの厳しくなった韓国や台湾から、覚せい剤密造拠点が中国本土へ移転していった経緯について、当時の警察庁幹部は次のように記しています。
 「1980年代の終わり、中国は台湾との対岸交流を認め、台湾と中国の経済交流が容易となった。台湾の密造グループは、これに目を付け、90年代の初め、福建省厦門に会社を設立、密造器具と原料等を密かに運び込み覚せい剤の密造を開始した。以降、中国東南部は覚せい剤密造の一大拠点となった。一方、韓国で過去に摘発されたグループも刑期を終え、刑務所から出所し始め、そのうちのいくつかは中国東北部の朝鮮族居住地を密造拠点として開拓を始めたのである[62] 。」
 台湾の密造グループによって覚せい剤密造が伝えられた中国東南部の沿岸地域は、その後、中国でも有数の結晶タイプ覚せい剤の密造地域として、急速に生産力を高めていきます。国連薬物犯罪事務所の報告書には、次のような記述があります[63]。
 「覚せい剤の密造拠点は明らかに、東南部の省、とくに(香港に近い)広東省や福建省に集中しているが、当局によると、中国内の他の地域でも覚せい剤の密造が報告され始めている。中国の密造拠点の多くは、現に、香港や台湾の犯罪組織のために活動している(私訳) 。」
画像

↑UNODCに報告された中国の覚せい剤密造拠点の摘発数
国連薬物犯罪事務所編「2003年版世界の不正薬物動向」より[64]

 中国南東部の沿岸地域で行われる覚せい剤密造の実態を知る手掛かりが、ごく最近もたらされました。今年1月、中国広東省沿岸部の小さな村の一斉捜索で、3トンの覚せい剤が押収されたというニュースがありました。
 広東省陸豊市博社村、戸数2000ほどの小さな村で、数十軒が覚せい剤密造に関わり、逮捕者は200人近くにのぼりました。この地域では1990年代から覚せい剤密造が始まり、次第に村人の多くが覚せい剤の密造や密売に加担するようになったといいます。密造は、地域の密造グループを取り仕切る有力者の下で、家族や親族といった小規模なグループによる手作業で行われています。作業場は一般住宅の一隅や簡素な作業小屋で、取り立てて大きな設備も使わず、手作業で覚せい剤が生み出されています。
 まさしく、上記で指摘された中国東南部の密造地域の一部です。1990年代に、台湾の密造グループによって持ち込まれた覚せい剤密造が、この地域の小さな村々に伝わり、今日まで引き継がれてきたわけです。なお、中国をはじめ東南アジア一帯で流通している覚せい剤には、錠剤タイプと結晶タイプがありますが、台湾や韓国から密造が伝えられたのは、結晶タイプです。詳しくは後の項目で述べます。
 ただし、密造方法は、時の経過とともに変わっているようです。摘発された博社村で行われていたのは、原料としてマオウ(エフェドラ)を使う方法です。台湾では、エフェドリンを原料とする方法が主流だったはずですから、中国本土で密造が行われるようになって後、この土地で入手が容易だったエフェドラを使う方法が主流になっていったものと思われます。漢方薬として古くから使われてきたエフェドラは、中国北部に自生する植物で、含まれているエフェドリンを抽出して覚せい剤密造原料とします。エフェドラの栽培や流通は国によって管理されていますが、それでもヤミのルートに乗って不法流通が絶えず、近年、中国で摘発される覚せい剤密造事犯の90%程度が、エフェドラを原料として使っていると報告されています[64] 。

注釈と出典
[62] 大橋亘「現下の薬物情勢と薬物対策における当面の課題」警察学論集51巻5号、37頁、1998年
[63] UNODC, Global Illicit Drug Trends 2003, P.35, 2003
[64] 前注63、同ページ
[65] UNODC, Patterns and Trends of Amphetamine-Type Stimulants and Other Drugs: Challenges for Asia and the Pacific 2013, p.62, 2013

続く
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密造拠点の中国への移動 | 覚せい剤密輸の半世紀8

2014/05/05 23:58
覚せい剤密輸の半世紀

第2章 大規模な密造地域の形成・・・1990年代〜

 韓国や台湾の覚せい剤密造拠点は、各国での取り締まり強化にともなって、さらに新たな地域に移転・拡散していきます。台湾の密造グループは、対岸の中国福建省や広東省の沿岸部に新たな密造拠点を広げ、また韓国の密造グループからは、韓民族の住む中国北東部へ密造技術が伝えられたといいます。
 中国の広東省や北東部で覚せい剤密造が次第に活発化し、それまでヘロイン乱用者が多かった中国に、新たな合成薬物として覚せい剤乱用が広がり始めました。同時に、中国から日本への密輸量も急激に増加していきます。

1、韓国、台湾での密造の鎮静化
 1990年前後の数年間、わが国への覚せい剤密輸が、一時的な縮小傾向をみせた時期があります。それまで、主に日本に供給するための覚せい剤を密造してきた韓国や台湾で、密造拠点の周辺に覚せい剤乱用が広がり始め、新たな国内問題となったことから、韓国や台湾で覚せい剤の密造・密売に対する取り締まりが強化され、密造・密輸出の活動が大きく制約されることになったのです。

 韓国は、1970年に習慣性医薬品管理法を制定し、覚せい剤の密造・密売の取り締まり体制を整備してきましたが、その後も密造は続き、やがて密造拠点の周辺に次第に乱用が広まり始めます。1980年ころには、覚せい剤乱用が新たな国内問題として浮上し始め、1988年には覚せい剤事犯の検挙人員が3,320人と過去最高に達したため、韓国大検察庁に麻薬課が新設され、取り締まりの強化が図られました[57]。また1989年には、覚せい剤密造原料となるエフェドリンに対する規制が導入され、この頃から韓国での覚せい剤密造は大幅に減少していきます。
 台湾でも、韓国の場合とよく似た経緯をたどりました。1960年代末に覚せい剤に対する法規制が導入された当時は、専ら密輸するために密造が行われ、覚せい剤は一般住民にとってほとんど馴染みのない存在だったといいます。覚せい剤乱用が国内問題として注目され始めたのは1990年ころのことで、実態調査で高校生の1%が覚せい剤を使用している実態が明らかになり、1970年代には年間数百人だった麻薬取締法違反の検挙者が、1993年には35000人を記録しました。1993年に政府は薬物撲滅宣言を発し、覚せい剤密造拠点の徹底摘発に乗り出したことから、密造組織はその活動拠点を中国本土に移転するようになりました[58] 。

 わが国への覚せい剤供給地となってきた韓国や台湾で、相次いで覚せい剤取り締まりが強化されたことで、わが国へ密輸される覚せい剤の状況にも変化が生じました。まず、1980年代後半に韓国ルートの密輸摘発が減少し、次いで台湾からの密輸摘発も減少し始め[59] 、1990年から1995年ころまでは、わが国の密売市場に供給される覚せい剤が少ない状態が続きました。1994(平成6年)版の警察白書は、「全国13の都道府県警察において、覚せい剤事犯被疑者の供述等から覚せい剤の密売状況を調査したところ、全国的に覚せい剤が品薄状態となり、密売価格が高騰している状況がうかがわれた。」と報告しています[60] 。

 韓国でも台湾でも、覚せい剤乱用問題が拡大し始めるとともに、徹底した取り締まりが行われ、比較的短期間で、とりあえず各国内での密造を鎮静化することに成功しています。しかし、強力な取り締まりによって成し遂げられた鎮圧の成果は、やがて、はかないものであったことが明らかになります。
 1990年代の初めころ、韓国や台湾で覚せい剤密造に対する取り締まりが本格化したとき、これに対応して、密造グループは新たな密造拠点を模索し始めました。1970年代に、わが国で覚せい剤密造に対する取り締まりが強化されたとき、密造拠点が韓国や台湾と知った近隣国に移転したのと同じことが、ここでも繰り返されたのです。
 こうした移転のメカニズムは、膨らんだ風船の一か所を押さえると別の箇所が膨らむところから、「風船効果」と呼ばれるそうです。2001年版の国連薬物犯罪事務所による資料には、1国での取り締まり強化に対応して、覚せい剤の密造拠点が近隣国に移転した「風船効果」の事例として、米国での密造取り締まり強化に対応してメキシコでの密造が増加した例とともに、日本から韓国やフィリピンを経て中国へと覚せい剤の密造拠点が移転していった動きがあげられています[61] 。

注釈と出典
[57] 平成7年版犯罪白書 第4編/第9章/第5節/1 、1995年
[58]Shih-Ku Lin,et al., The Drug Policy in Taiwan - Past and Future, 1993
[59]警察庁の統計によると、覚せい剤大量押収大量押収事案(一度に1s以上を押収した事案)において、韓国を仕出し地とするものは1989(平成元)年を最後に押収されなくなり、また台湾を仕出し地とするものは1994(平成4)年以降ほとんど押収がなくなっています。
[60]平成6年版警察白書 第6章 社会的危険の除去と環境の浄化、1994年
[61]UNODCCP, Global Illicit Drug Trends 2001, p14, 2001 。なおUNODCCPは国連薬物統制及び犯罪抑止事務所の略称、現在のUNODC(国連薬物犯罪事務所)です。

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覚せい剤密輸事件 | 覚せい剤密輸の半世紀7

2014/04/28 16:21
6、覚せい剤密輸事件
 1970年代、韓国や台湾などの近隣国で密造される覚せい剤が日本に密輸されるようになり、日本国内で密売される覚せい剤が次第に増加し始めます。覚せい剤密輸の草分けともいえるこの時期に、どんな人たちが、どのような手法で密輸を行っていたのか、実際の事件を通じてみておきましょう。

⑴ 運び屋たち
 1970年から80年代前半、韓国や台湾などの近隣国で密造される覚せい剤の多くは、運び屋の手でわが国に密輸されていました。外国旅行の機会が限られていた当時、運び屋として日本への密輸に関与した人たちの中には、外国人船員や、墓参や親族訪問として母国を訪れる在日韓国人があったといいます。1978(昭和53)年に警察が行った実態調査によると、検挙された密輸入被疑者の35.6%を外国人船員が占めており、その大半は密輸組織の内部について知らされていない末端の運び屋であったと報告されています[46] 。
 当時の覚せい剤密輸事件の判決文から、具体的な密輸ケースを見てみましょう。

@船員による覚せい剤密輸事件判決(昭和54年)から[47]
 昭和54年1月、韓国籍貨物船の操舵手である被告人は、韓国釜山市で出会った人物から覚せい剤を日本へ運び込むよう依頼され、覚せい剤約2.4キロを手渡されて貨物船に乗り込み、到着した大阪港で、2回にわたって覚せい剤を衣服の下に隠して上陸し、密輸したという事件です。
 被告人の供述によれば、後払いで約束された報酬は1キログラム当たり100万ウォン、この件では当時の日本円で約84万円というものでした。
 なお、この事件では、覚せい剤の引き渡しに手の込んだ手段が登場しています。被告人は上陸後、覚せい剤を国鉄大阪駅構内のコインロツカーに2口に分けて隠し、指定された荷受人に、コインロツカーの鍵2個を引き渡しているのです。いっぽう、被告人は船員として乗船して韓国と日本を往復する都度、日本で電気製品や時計などを買入れて韓国へ運び、韓国で朝鮮人参などを買入れて日本へ運びそれぞれ密輸入して売却し、利鞘をかせいでいたと供述しており、当時の外国航路の船員が様々な形で小規模な密輸行為をしているなかで、覚せい剤密輸も行われていたことが推察されます。

A受取役に対する判決(昭和55年)から [48]
 いっぽう、外国人船員などの運び屋の手で持ち込まれた覚せい剤は、港で待ち受ける受取役に引き渡され、一時保管されることもあります。昭和55年の福岡地裁判決には、韓国人船員から頼まれて、博多港に密輸された覚せい剤を受け取って運搬したことから密輸・密売人とつながりができ、船員たちの密輸に加担した被告人の事件があります。
 昭和54年10月、韓国人船員と共謀して、博多港に入港した韓国のカキ殻運搬船で運び込まれた覚せい剤を密輸したとして起訴されたのは、港近くに住む日本人男性でした。本件は、10万円の報酬を約束された被告人が、博多港の岸壁に停泊中の韓国カキ殻運搬船から、2回に分けて合計約10キログラムの覚せい剤を陸揚げして密輸入し、自宅で所持していたというもので、被告人には懲役13年が言い渡されました。
 判決は、被告人は密売組織とのつながりが薄く、また覚せい剤の量に比して、受け取る報酬も僅少であったとはいえ、こうした「運び屋」が、国民の被る害悪や自己の身にふりかかる危険を顧みずにその犯行を遂げていることにより、密売組織が成り立っているのであり、その存在が覚せい剤のもたらす社会悪の根源となっていると指摘し、自己の得た利益が比較的僅少であったからといって、その刑責を特に著しく軽減されるいわれはないと判示しています。

⑵ 不況下での資金稼ぎ
 1970年代の世界を襲った不況時には、資金難に見舞われた中小企業の経営者が、運転資金を得ようと、覚せい剤密輸に加担したという事件が多発しました。

@昭和52年の覚せい剤密輸事件から [49]
 1976(昭和51)年9月、下関港に到着した関釜フェリーに乗って韓国から帰国した男性が、持ち帰ったたらこ桶内に隠した覚せい剤約300グラムが発見され、逮捕されました。この密輸計画は、運搬役男性が勤める会社の経営者で、折からの不況で負債の返済に窮し、返済資金に充てるため覚せい剤を輸入して日本国内で密売しようと企てたもので、運搬役の男性は、業務見習を兼ねた観光旅行として、韓国に渡航したものでした。
 広島地裁は、首謀者の会社経営者には懲役5年、密輸した覚せい剤の売りさばきを担当した男性には懲役4年、韓国からの運搬役を務めた男性は、行きがかり上密輸に加担したもので営利の目的がなかったとして懲役2年(執行猶予付)を言い渡しました。

A1975(昭和50)年・神奈川県警の検挙例から[50]
 不動産業者が、借金の返済に充てる目的で仲間2人と共謀して、2回にわたり覚せい 剤をショルダーバックの中に隠して、航空機でタイ国から密輸入した事犯を検挙し、覚せい剤3キログラム余を押収した。

B1976(昭和51)年・兵庫県警の検挙例から[51]  
 倒産で多額の負債を抱えた元建設会社経営者がその返済と事業の再建資金に充てるため、商用を装って韓国へ渡航し、3回にわたり覚せい剤2.1キログラムを韓国製味付のり缶の中に巧妙に隠匿の上、航空機で密輸入した事犯を検挙し、国内の関連暴力団密売組織を壊滅するとともに覚せい剤約1キログラムを押収した。

⑶ 暴力団の関与
 この時期の覚せい剤密輸事件には、暴力団が次第に関与を深めていく様子が映し出されています。当時の警察庁幹部の論考には、「新たに暴力団関係者が直接渡航して密輸入する傾向がみられはじめる」という記述がみえ[52] 、また警察白書には覚せい剤密輸に関わった暴力団関係者の検挙例が多数残されています。

@1974(昭和49)年・京都府警の検挙例から[53]  
 京都市内に勢力を有する暴力団組長の内妻が、組の活動資金の確保と勢力の拡大を図るために覚せい剤の密輸密売を企て、配下の組員や鉄筋業者等6人を運び屋に仕立て、香港から航空機で5回にわたり覚せい剤5キログラム、同原料2キログラムを密輸入し、これを関西一円に密売してばく大な利益をあげていた。

A1977(昭和52)年・岐阜県警の検挙例から[54]
 在日韓国人(51)らのグループが、51年10月以来、3回にわたり、覚せい剤13キログラムを航空機又は関釜フェリーを利用して密輸入し、東北、関東、中部地区の山口組系暴力団、元極東愛桜連合会、住吉連合等の組織を通じて広域に密売していた事犯を解明、関連被疑者29人を検挙し、覚せい剤8.8キログラム、けん銃3丁等を押収した。

B1979(昭和54)年・警視庁の検挙例から [55]
 大阪市城東区に本拠を置く山口組系暴力団A興業は、香港から24回にわたり合計約83.5sの覚せい剤を密輸入し、密売した。このうち、警察が押収した覚せい剤は約4sで、残りの約80s(約240万回分の使用量)は既に密売されていた。会長Bは、覚せい剤の密売で得た金でプール付きの豪邸に住み、豊富な資金を有していた。本件では、裏付けの取れたBら幹部3人の密売収入合計1億1,400万円の不法収入について東京国税局に通報した。

⑷ 密輸組織の形成
 暴力団が覚せい剤密輸に関わりを深めるようになると、やがてその周辺に、暴力団と密接に関わりながらも、独立した組織として覚せい剤密輸を行う犯罪集団が形成されるようになります。たとえば、当初は、暴力団関係者から頼まれて運び屋として密輸に加担した人たちの中からも、やがて自ら密輸を行うグループが生まれるといったケースです。
 1978年4月、大阪地方裁判所は、韓国からの覚せい剤密輸事件の幇助などで起訴された被告人に、懲役3年及び罰金50万円の判決を言い渡しました。事件は、韓国から覚せい剤を密輸していたNから現金を受け取り、覚せい剤の仕入れ資金に使われることを知りながら、銀行の保証小切手を振り出した被告人が、Nらの密輸を幇助したなどの罪で起訴されたものですが、その判決中に、密輸グループの形成と拡大の過程が具体的に記載されているので、その部分をかいつまんで紹介します。

C 1978(昭和53)年の裁判例から [56]
 被告人は、暴力団の会長方に出入りするうち、昭和48年9月ころ、運び屋を頼まれて引受け、韓国から覚せい剤を運び込むようになりました。当初は、暴力団会長などから頼まれ、仕入れ資金を預かって渡航していましたが、半年後には自己の覚せい剤仕入れ資金を韓国に持参するようになり、その後は自己の計画、計算のもとに自ら渡韓して覚せい剤を日本に密輸入していました。
 そのころ、被告人は、知り合いのNから覚せい剤の密輸入に加わりたいと頼まれ、同人にパスポートやビザの手続を教え、渡韓中にNと落ち合い、覚せい剤仕入れ先を紹介するなどしました。昭和49年1月ころ、Nは被告人の運び屋となることを引き受け、覚せい剤の運搬を始めましたが、およそ半年後、被告人が別件詐欺事件で勾留されたことなどから、Nは被告人から仕入れ資金を預かり、韓国での仕入れを含む一切を任されるようになりました。
 当初は被告人の運び屋として渡韓していたNは、やがて自分も仕入れ資金を出すようになり、さらに、新たな人物を輩下の運び屋に引き入れるとともに、韓国での覚せい剤の仕入れ先も変更し、また、韓国滞在中に知り合った別なグループからも仕入れ資金を預かって渡韓するようになり、同時に自らも多額の仕入れ資金を出して覚せい剤を密輸入するなどして、同年8月ころには、すでに、独立した密輸入グループの中心的存在となっていました。
 当初、韓国からの覚せい剤密輸を手掛けた暴力団、そしてその運び屋として雇われて密輸に関わりながらやがて独立して密輸を行うようになった被告人、さらに被告人の運び屋として参加してやがてその密輸を継承し、さらに拡大させたN・・・。およそ1年余という短期間に、次々と首謀者が交代しながらもひたすら拡大してきたこの密輸ルートは、捜査陣の追跡によって検挙され、一網打尽となりました。しかし、頻繁に繰り返された密輸に加担しながら、逮捕を免れた関係者もいたはずです。また、ひとたびは刑に服した人たちが再び社会に戻って、密輸ルートを再開させることもあります。
 この時期、覚せい剤密輸という甘い蜜に群がる犯罪者集団は、急速に膨れ上がっていたのです。

出典
[46] 昭和54年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[47] 大阪高等裁判所昭和54年10月31日判決、最高裁判所刑事判例集34巻4号227頁、最高裁判所刑事判例集34巻4号227頁、D1-Law22003765
[48] 福岡地方裁判所昭和55年9月22日判決、判例時報979号135頁、D1-Law27921279
[49] 広島地方裁判所昭和52年3月28日判決、D1-Law2200376
[50] 昭和51年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[51] 昭和52年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[52] 榧野敏雄「覚せい剤犯罪の現状と展望」警察学論集26巻10号88頁、1973
[53] 昭和50年版警察白書 第5章 生活の安全と環境の浄化
[54] 昭和53年版警察白書 第6章 生活の安全の確保と環境の浄化
[55] 昭和55年版警察白書 第2章 白い粉との戦い
[56] 大阪地方裁判所昭和53年4月28日判決、最高裁判所刑事判例集36巻2号213頁、D1-Law24005802

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台湾への進出 | 覚せい剤密輸の半世紀6

2014/04/12 17:13
5、台湾への進出
 1975(昭和50)年ころになると、わが国で摘発される覚せい剤密輸事件の仕出し地として、台湾、タイ、香港などが散見されるようになります。なかでも台湾は、その後わが国への主要な供給地になり、それまでわが国への覚せい剤供給地として第一位を占めていた韓国に代わって、1984(昭和59)年以降は、台湾が仕出し地の首位を占めるようになります。
 台湾に覚せい剤密造の技術を持ち込んだのは、日本の暴力団だといいます。当時の警察庁幹部による論考には「(密造地としての台湾の)特徴としては、日本の暴力団員等が進出して、現地で密造の技術指導をして昭和50年頃から現地での密造が活発になったことである。」という記述が見え[38]、また、昭和52年版警察白書は「51年には、日本人が台湾に密造工場を作り、現地人グループと共謀して大量の覚せい剤を密造した上、日本へ密輸入するなどの大規模な事犯(が摘発され)・・・、密輸入は大幅に増加した 。」としています[39]。さらに国連薬物犯罪事務所による世界薬物報告書も「1970年代に日本の薬物組織によって、台湾の犯罪グループに覚せい剤密造のノウハウが伝えられたといわれ、当初は日本の組織のために密造が行われた。(私訳) 」としています[40]。
 韓国の場合と同じく、覚せい剤密造拠点が稼働し始めた1975(昭和50)年ころの台湾では、覚せい剤乱用問題はほとんどなく、密造された覚せい剤は、もっぱら日本に向けて密輸されていました。しかし、1980年代後半になると、台湾地域に覚せい剤乱用が広がり、国内の需要増加に対応して密造はさらに活発化し[41] 、日本に密輸される覚せい剤も急速に増えていきます。
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↑覚せい剤密輸仕出地の変化
過去の犯罪白書、警察白書から抜粋したデータを元に、私が作成したグラフ。
*なお、抽出したデータが一貫していないため、数字の信頼性にはいくらか疑問がありますが、おおよその状況を把握するため、あえて資料化してみました。

 前出の世界薬物報告書によれば、台湾警察は、1990年代前半とくに1991、1992年に地域の覚せい剤生産に対して取締りを開始し、密造原料のエフェドリンに対する流通規制を強化します。これに対応して、密造グループは、香港の犯罪組織を通じて中国本土から密造原料を入手するようになり、やがて、密造拠点を中国本土に移転して覚せい剤の密造をするようになったといいます[42]。
 1990年代前半には、密造拠点は中国本土へと移り、台湾での覚せい剤密造は下火になりますが、その反面で、台湾はアジア太平洋地域をカバーする薬物密輸のハブ基地化していきます。東南アジアからもたらされるヘロインに加えて、中国本土で密造された覚せい剤が、台湾系の薬物密輸組織の手で、わが国やフィリピンなどの太平洋地域をはじめ、遠くはアメリカにまで密輸されるようになったのです。
ところで、ここでは便宜上「台湾系の薬物犯罪組織」としていますが、その活動には日本の暴力団が深く入り込んでいて、この呼び方が実態を正しく表しているかどうか、私にはためらいがあります。韓国で行われていた密造・密輸についても、同じことがいえるでしょう。米国では、1990年代に東南アジアから供給された覚せい剤に触発されて、覚せい剤乱用の波が広がったといわれていますが、この時期の米国の資料には、覚せい剤の供給源を日本のヤクザ組織とする記載にしばしば出会います。
 1989年のロサンゼルス・タイムズに、ハワイで台湾や韓国から密輸される覚せい剤の押収が増えていることを報じた記事がありますが、そのなかに、ちょっと興味をひかれる記述があるので、その部分を私訳で紹介します。「韓国検察庁の薬物部門の責任者は・・・アジアの覚せい剤取引における『ホワイト・トライアングル』について、次のように語る。1960年代の日本で警察が覚せい剤密造を壊滅させた後、日本の犯罪組織は、違法な密造拠点を韓国に移転し、後には台湾に移して覚せい剤を密造して日本に逆輸出し、数十万人に及ぶ乱用者に供給した。・・・東南アジア一帯で日本のヤクザの活動が活発化しているのに伴って、覚せい剤取引は東南アジアから米国にまで広がっており、現在ではハワイとおそらくカリフォルニアにまで達している(私訳)。[43] 」
 なお、その後台湾当局による取り締まり強化によって台湾を中継拠点とする薬物密輸は沈静化し、1996年には国連麻薬統制委員会による監視対象から台湾は除外されましたが[44] 、わが国で摘発される台湾からの覚せい剤密輸も、このころを最後に消えていきました。
 なお、米国の資料によれば、近年でも台湾では覚せい剤乱用は重大な国内問題となっていますが、台湾に出回っている覚せい剤のほとんどは中国本土から密輸されたものだといいます[45]。

出典
[38] 島田尚武「『シャブ時代』における覚せい剤問題の全般的概況」、警察学論集31巻7号、11頁、1978
[39] 昭和52年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[40] UNODC, Global Illicit Drug Trends 2003, P.36
[41] 前注40書同ページには、「1980年代後半には、彼らは、急速に拡大する台湾地域の市場に供給するための生産を開始した(私訳)。」とあります。
[42] 前注40書同ページ
[43] S. Korea Seen as Major Source of 'Ice' Narcotic, LosAngeles Times, October 14, 1989
[44] US Department of State, 1999 International Narcotics Control Strategy Report
[45] US Department of State, 2005 International Narcotics Control Strategy Report, p.349

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密造拠点の拡散 | 覚せい剤密輸の半世紀5

2014/04/08 23:39
4、韓国での取り締まり強化と密造拠点の拡散

 韓国では、日本統治時代にモルヒネ等の麻薬乱用が広まり[31] 、1945年の独立後もしばらくは深刻な状況が続きましたが、その後の強力な取り締まりによって、1960年代後半ころから麻薬犯罪は急速に減少し始め、1970年代には麻薬問題はほぼ根絶したと見られていました。
 しかし、やがて日本に密輸する目的で覚せい剤を密造し、これを韓国人船員や日本からの旅行者に売却するという現象が現れ、覚せい剤を取り締まるため1970年に「習慣性医薬品管理法」を制定し、製造、輸出入及び製造又は輸出入目的での所持事犯に対しては無期懲役又は7年以上の有期懲役、更に営利目的又は常習でこれらの罪を犯した場合は、死刑又は無期懲役若しくは10年以上の有期懲役と、極めて厳格な罰則が定められました。
 なお、この法律は、覚せい剤の製造や輸出入、譲渡、使用などを禁止していますが、制定当時の韓国では、覚せい剤乱用はほとんど問題になっていなかったため、主に密造や密造品の譲渡、密輸などが取り締まりの対象とされました。たとえば1975年の習慣性医薬品管理法違反、つまり覚せい剤事犯の検挙状況は、密造14件(47人)、密売22件(90人)に対して使用事犯はわずか2件(4人)となっています[32] 。やがて、韓国でも乱用者の増加が問題となるのですが、それは、しばらく後年のことです。

 韓国での法制定は、間もなく日本への覚せい剤密輸状況にも変化をもたらし、それまでもっぱら韓国に限定されていた密輸覚せい剤の仕出し地が分散し始め、1973(昭和48)年には香港からの密輸が摘発され[33] 、翌年には台湾、タイからの計画的、組織的な大量の密輸事犯が検挙されました[34] 。
 同年末の国会委員会で、説明員として出席した警察庁幹部は「この6月以降に韓国のルートが、全然検挙がありません。香港ルートとか台湾ルートが検挙されておりますが、これは私どもの推察といたしましては、・・・韓国の覚せい剤取り締まりの根拠法で、法律の中で死刑を最高刑にしたということで、犯人が非常に自粛しているのじゃないか」と発言しています[35] 。
 しかし、韓国からの密輸が途絶えてしまったわけではなく、その後も1983(昭和58)年までは、韓国はわが国に密輸される覚せい剤の最大の仕出地であり、韓国仕出しの覚せい剤が年間50キログラム前後押収されるという状況が続きました。

 なお、韓国では1980年ころから覚せい剤の乱用が国内でも問題になり始め、取り締まりが強化されましたが、当時の警察白書は「従来覚せい剤を供給するだけであった韓国においても、最近、乱用者の増加が問題となりつつある。」として、密造者から覚せい剤を仕入れ、釜山市内で密売していた韓国人の会社社長を釜山地方検察庁が検挙した事例を紹介しています[36] 。さらに1989年には密造原料となるエフェドリンの規制が強化され、このころから、韓国での覚せい剤密造は急速に鎮静化し始め、韓国での覚せい剤密造は1990年代後半までにはほぼ壊滅したとみられています。米国の資料は、1999年時点で「韓国における覚せい剤密造は、もはや問題となっていない。」としています [37]。

出典
[31] 日本統治時代の朝鮮におけるモルヒネ問題については、倉橋正直『日本の阿片戦略』共栄書房(2005)、第6章 「朝鮮モルヒネ問題」に詳しい論考があります。
[32] 習慣性医薬品管理法の成立と運用については、主に、飼手義彦「東南アジア諸国における薬物乱用問題の現状」(前注30書)によりました。
[33] 昭和49年版 犯罪白書 第3編/第2章/第2節/2
[34] 昭和50年版 犯罪白書 第1編/第2章/第2節/4
[35] 昭和48年11月13日、衆議院決算委員会における綾田説明員の発言
[36] 昭和55年版警察白書 第2章「白い粉との戦い」
[37] US Department of State, 1999 International Narcotics Control Strategy Report

続く
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密造拠点は韓国へ|覚せい剤密輸の半世紀4

2014/04/04 23:46
覚せい剤密輸の半世紀を振り返る連続記事です。
第1章 密造から密輸へ・・・1970年代〜
を続けます。

3、韓国での覚せい剤密造の開始
 1969(昭和44)年ころ、再び覚せい剤市場が活発化し始めるとともに、国内での密造も動き始めましたが、覚せい剤の密造は悪臭を発するために発覚しやすく、警察による摘発が相次ぎ、やがて密造は下火になっていきますが、これと呼応して、韓国から密輸される覚せい剤が増え始めます。
 韓国で密造された覚せい剤が、わが国で押収されるようになったのは、1965(昭和40年)ころからで、大阪を中心とした関西に韓国産の精製度の悪い、いわゆる赤ネタと称する覚せい剤粉末の密売買がみられるようになったという報告があります[22] 。
 韓国からの覚せい剤密輸が本格化したのは1970(昭和45)年ころからで、その後1983(昭和58)年までの10年以上にわたって、わが国で摘発される覚せい剤密輸において、韓国は、供給地の第1位を占め続けます[23] 。韓国ルートの覚せい剤密輸押収がピークに達した昭和56年では、年間の密輸押収量102.8キログラムのうち、74.4%(76.5キログラム)が韓国を供給地とするものでした[24] 。
画像

↑覚せい剤密輸入事犯の押収量の供給地別及び陸揚地別構成比
昭和57年版犯罪白書より転載

 
 ここで特筆しておかなければならないのは、当時、韓国では覚せい剤乱用はほとんど問題になっておらず、主に日本に向けて密輸するために、密造が行われたという点です。当時の検察官は、「韓国内における使用を背景とする覚せい剤の需要は極めて小さいか、あるいは無視して差支えない程度と考えてよいであろう。韓国において覚せい剤が問題とされるときは、もっぱらわが国への供給を目的として覚せい剤の密造、密売買、密輸出である 。」と報告しています[25]。
 その後、密造拠点は、台湾、フィリピン、タイなどへ移動・拡散していきますが、いずれの場所でも、密造拠点が稼働し始めたころには、現地での覚せい剤乱用はほとんど問題になっていなかったという事情は共通しています。

 ところで、最初に密造拠点を設けた場所がなぜ韓国だったのでしょう。これを考えるうえで、当時の日韓交流状況は大きなヒントになります。1965(昭和40)年には日韓基本条約が締結されて国交が成立、1970(昭和45)年には関釜フェリーが就航するなど、日韓の交流が急速に活発化していた時期に、韓国から日本にもたらされた大量の輸入品に紛れて、覚せい剤の密輸も動き出したのです。
 当時の国会委員会で、政府委員として出席した厚生省の薬務局長は、次のように答弁しています。「韓国との関係でございますが・・・、交通は非常に便利になっておりまして、連絡船もございますし、飛行機もある、フェリーもあるというようなことで、相当韓国から覚せい剤が輸入されておるという情報は私どもも入手いたしております。そのために、九州の地区麻薬取締官事務所の分室を小倉に置きまして・・・税関あるいは警察庁、海上保安庁等とも連絡をとりまして・・・水ぎわ作戦で押えるというような対策をとっております [26]。」
 また、かつて日本で覚せい剤密造に関わった韓国人の存在についても、しばしば言及されています。以下は、第二次乱用期のころの、警察庁薬物対策課長による論考の一部ですが、密造拠点としての韓国をよく表しています。
 「密造国としての第一は韓国である。ここには、『ヒロポン時代』に日本で密造技術をマスターした優秀な技術者が多数居る。原料の塩酸エフェドリンも容易に入手できる。その一部は日本から密輸出されているとの情報もあり関心を持っている。韓国は市場に近く、航空機、船舶等による交流も頻繁であり、更に日本の暴力団員等の関係者も多数居住している。密造されているのは結晶状の「ガンコロ」であり、日本での評判は良い。年間1トン以上を日本に供給しうるとみられている。価格は1グラム4〜5千円から1万円で日本に密輸出される[27] 。」
 ヒロポンの時代、密造者として検挙された人たちの中に、朝鮮半島出身者が際立って多かったことが、当時の警察の集計で知られています。前述したように、1954(昭和29)年に警察は覚せい剤事犯に対する集中取り締まりを実施しましたが、取り締まり開始直後の同年10月中に検挙された密造事犯者の54.8%が朝鮮または中国系の外国人だったといいます[28] 。日本でヒロポン密造に関わった人たちが、その後帰国し、韓国に覚せい剤製造の技術を伝えたことは容易に推察することができます。
 いっぽう、日本の暴力団も韓国に進出して、韓国の密造グループと連携して覚せい剤の密造や密輸に関与し始めますが、昭和54年版警察白書はこうした動きについて「最近は暴力団関係者がこれらの国に駐在し、現地人と結託して大規模な密造密輸組織を作り、外国人船員等を使用して大量の覚せい剤を持ち込む[29] 」と述べています。また、「ソウル地方検察庁が1976(昭和51)年から1978(昭和53)年前半期までの間に受理した覚せい剤事犯による合計178名の被疑者のうち17名が外国人で、しかも、そのうち15名が日本人である[30]。 」とする報告もあります。

出典
[22] 笠谷正次郎「大阪における覚せい剤犯罪の実態」、警察学論集31巻7号73頁、1978
[23] 昭和60年版犯罪白書によれば、昭和58年では、韓国を供給地とする密輸が74.6%を占めていたが、昭和59年では台湾ルートが92.4%となっている。
[24] 昭和57年版犯罪白書 第4編/第2章/第4節/2
[25] 飼手義彦「東南アジア諸国における薬物乱用問題の現状」法律のひろば32巻5号、26-27頁 、1979
[26] 昭和48年4月3日参議院外務委員会での政府委員松下廉蔵氏の発言より
[27] 島田尚武「『シャブ時代』における覚せい剤問題の全般的概況」、警察学論集31巻7号10頁、1978
[28] 近藤光治「覚せい剤事犯の回顧と展望」、警察学論集8巻1号47頁、1955
[29] 昭和54年版警察白書、第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[30] 飼手義彦「東南アジア諸国における薬物乱用問題の現状」法律のひろば32巻5号26頁、1979

続く
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シャブ時代の開幕|覚せい剤密輸の半世紀3

2014/03/30 04:32
覚せい剤密輸の半世紀を振り返る連続記事です。
前記事は
ヒロポン時代の終焉|覚せい剤密輸の半世紀2 (2014/03/28)
http://33765910.at.webry.info/201403/article_13.html

第1章 密造から密輸へ・・・1970年代〜

1、シャブの時代の開幕
 1958(昭和33)年、覚せい剤事犯の検挙者は271人にまで減少し、戦後の混乱期に始まったヒロポン乱用はここで一応の終息を迎え、その後10年あまりにわたって、覚せい剤に関しては平穏な状態が続きます。この間に、都市労働者にヘロイン乱用が広まったり(昭和30年代)[11] 、青少年を中心とした睡眠薬乱用が広まるといった動きがあり(昭和30年代後半)[12] 、また覚せい剤に代わってスパL[13]などの薬物の乱用がみられましたが、いずれも、比較的短期間で終息しています 。
 しかし、ひとたび封じ込められた覚せい剤乱用は、再び増加に向かい始めます。覚せい剤事犯の検挙者は、1965(昭和40)年ころから漸増し始め、1970年以降は加速度的に増加し、わが国の覚せい剤市場は第二次乱用期に突入したのです。
 第一次の乱用期を「ヒロポンの時代」とすれば、第二次乱用期は「シャブの時代」と呼ぶことになるでしょう。沈黙の10年を超えて再び活発化した覚せい剤は、「ヤク」や「シャブ」と呼ばれ、以前とは明らかに異なる性格を帯びていました。
 第一に、密売される覚せい剤の形状が変わりました。ヒロポンの時代には、密売品の大半はアンプル入りの覚せい剤水溶液でしたが、シャブの時代には、粉末状での供給が次第に増加し[14] 、やがて覚せい剤といえば「白い粉」というイメージが定着していきます。下の表は、昭和49年版犯罪白書に掲載されたものですが、急速に粉末状の覚せい剤押収が増えている様子が分かります。
画像

↑覚せい剤・同原料の押収状況(昭和44年〜48年)
昭和49年版 犯罪白書 第3編/第2章/第2節/2より転載

 
 第二に、犯罪イメージを濃厚にしたことが挙げられます。ヒロポンの時代には、当初は薬局で市販されていた覚せい剤は、規制後も、今日の脱法ドラッグや処方薬のような感覚で日常生活に入り込んでいました。ところが、1954(昭和29)年ころから、警察は取り締まりを強化し、また、全国で啓発活動を展開して、覚せい剤乱用を抑え込んだころから、日本社会には覚せい剤に対する忌避感が根を下ろしたのでしょう。さらに、シャブの時代には、覚せい剤の密造、密輸、密売が暴力団の手で行われるようになったことによって、犯罪の色彩がさらに強くなりました。
 そして第三として、シャブの時代に突入して間もなく、国内での覚せい剤密造が下火になり、アジアの近隣国に設けられた密造拠点から、覚せい剤が密輸されるようになったことが挙げられます。以降、今日に至るまで、わが国で出回る覚せい剤のほとんどが外国から密輸される状態が続いています。

2、国内密造の動き 
 第二次乱用期を迎えたころ、まず注目されたのは、国内での覚せい剤密造が活発化し始めたことですが、そこには暴力団の影がありました。昭和50年版警察白書は、「従来の覚せい剤密造事犯は、密造前歴者や化学的知識を有する薬品会社職員等によって行われていたが、最近では暴力団自身が薬学書等を購入して製造方法を研究し、覚せい剤を密造しようとする傾向等がみられる[15] 。」と記載しています。
 このころの警察白書には、暴力団が密造に関与したケースが、[事例]として取り上げられているので、かいつまんで紹介します。
@昭和49年・栃木
 暴力団組長が、配下の組員や元製薬会社の職員等を使って、薬局等から覚せい剤原料やかぜ薬を大量に買い集め、民家の作業小屋に「公害防止技術センター」の看板を掲げ、覚せい剤5,300グラム、同原料2,500グラムを密造し、これを東日本一帯の暴力団仲間に密売した[16] 。
A昭和49年・兵庫
 暴力団員が、ギャンブルによる多額の借金の返済と組織における自己の地位の強化のために覚せい剤の密造を企図し、薬局等から覚せい剤原料を買い求め、薬学書を頼りに自宅において密造しようとした[17] 。
B昭和49年・埼玉
 暴力団組長が、薬剤師等を雇って、問屋からせき止め薬を大量に買い集め、覚せい剤原料を抽出し、これを原料として、埼玉県内の借家等6箇所において覚せい剤12キログラムを密造させ、これを関東一円の暴力団仲間に密売した[18]。
C昭和51年・東京
 金融業者等が、密造技術を持つ暴力団員と共謀して、市販のせき止め薬を大量に買い集め、神奈川県内の海浜別荘等9箇所において、せき止め薬から塩酸エフェドリンを抽出した上、覚せい剤3.4キログラムを密造し、これを関東地方を中心に暴力団に密売した[19]。
画像

↑覚せい剤密輸、密造事犯検挙人員
昭和49年版、昭和52年版犯罪白書のデータに基づいてグラフ化

 このころの密造には、密輸されたエフェドリンのほか、漢方薬として輸入された麻黄から抽出したエフェドリンを使用した例もあります。また、上記の事例にもあるように、市販の風邪薬、鎮咳薬などからエフェドリンを抽出して原料に用いたケースが、年間20件ほど摘発されていたといいます[20]。
 活発に動き始めた国内での覚せい剤密造ですが、作業に悪臭がともなうため密造場所が限られるうえ、警察による摘発が相次ぎ、またエフェドリンを含有する市販薬の規制などにより、1977(昭和52)年ころを最後に国内での摘発は姿を消し、代わって外国から密輸される覚せい剤が供給の主力になりました[21]。

出典
[11]昭和54年版警察白書は、昭和30年代のヘロイン流行について、暴力団が新たな資金源としてヘロインを密売し始めたことや、かつての「ヒロポン」の乱用者がヘロインの使用へと移行したため、32年ころから急速な拡大が始まったが、法改正などにより39年ころには鎮静化したとしている。
[12]昭和39年版犯罪白書、第四編/第一章/二/5(1964)は、「睡眠薬をもてあそぶ少年たちが、警察の補導線上に現われたのは昭和三五年の五、六月頃、・・・警察庁で、昭和三七年一月から五月までの間に、全国から報告を求めた睡眠薬服用少年の補導数は一、六六五人」としている。
[13]鎮痛薬、覚せい剤の代用品として昭和30年代に乱用された。
[14]昭和49年版犯罪白書 第3編/第2章/第2節/2は、「最近の覚せい剤事犯は,その対象がかつての液体中心に比べ,粉末中心となっているのが特徴的である。」と指摘している。 
[15]昭和50年版警察白書 第5章 生活の安全と環境の浄化
[16]昭和50年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[17]昭和50年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[18]昭和51年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[19]昭和52年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[20]中島治康「戦後の日本における薬物乱用防止対策」警察学論集41巻8号34-50頁、1988
[21]島田尚武「『シャブ時代』における覚せい剤問題の全般的概況」警察学論集31巻7号9〜10頁、1978

続く
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ヒロポン時代の終焉|覚せい剤密輸の半世紀2

2014/03/28 22:04
現在、日本の乱用市場に出回る覚せい剤のほとんどは、外国で密造され、不正な手段で密輸されたものです。
最初は国内で密造されていた覚せい剤が、外国から密輸されるようになったのは1970(昭和45)年ころのことで、それ以来およそ半世紀にわたって、日本の乱用市場は、もっぱらアジアの近隣国からの覚せい剤を受け入れながら拡大し、成熟してきました。いっぽう、視点を変えるなら、この半世紀は、日本の覚せい剤マーケットが、近隣国に供給拠点を拡散しながら、同時に各地に覚せい剤乱用を広げてきた軌跡でもあるのです。
いま、日本に運び込まれる覚せい剤は、アジア近隣国の枠を超えて、地球規模で密輸され始めています。そして供給網の拡張にともなって、その産地も、密輸を取り仕切る組織も、大きく変貌しようとしています。その変わり目を前にして、あらためて、覚せい剤密輸の半世紀を振り返ってみようと思います。

覚せい剤密輸の半世紀

序章 ヒロポン時代の終焉・・・1950年代〜

1、国内密造の鎮静化
 1951(昭和26)年、当時はヒロポンと呼ばれていた覚せい剤を規制する覚せい剤取締法が制定され、それまで製薬会社によって製造され、薬局を通じて販売されていた覚せい剤の製造・流通が原則として禁止されました。しかし、その後も、違反者の検挙は増え続け、「違法」となった覚せい剤取引は地下へ潜り、密造・密売されるようになり、やがてその過程に暴力団が深く関与するようになっていきます。
 1954(昭和29)年、覚せい剤事犯の検挙者が55,000人を超える事態に至ったことから[1] 、対策の強化が求められ、翌年には内閣に「覚せい剤問題対策推進中央本部」が設けられました。
 覚せい剤取締法は相次いで改正が行われ、1954(昭和29)年に罰則が引き上げられ、翌年には、密造対策として覚せい剤原料を規制する規定が加えられました。
 また、法改正と並行して、警察による取り締まりも大幅に強化されました。1954(昭和29)年10月、警察庁は覚せい剤事犯の取締強化に関する通達を全国各公安委員会に対し発し、対策の強化を推し進めることになりますが、ここで重点とされたのが、「覚せい剤事犯の根源となっている覚せい剤及び覚せい剤原末材料の密造、密売、密輸入事犯並びに営利の目的叉は常習として敢行せられる覚せい剤事犯等悪質事犯[2] 」で、集中的な取り締まりが行われた結果、1954(昭和29)年10月から12月の3か月間に、密造事犯として400件・697人が検挙されています[3] 。
 警察の徹底的な摘発によって、密売市場に出回る覚せい剤は目に見えて減少し始め、1958(昭和33)年には、覚せい剤取締法違反の検挙者はわずかに271人と、ピーク時の実に0.5%にまで減少し、蔓延していたヒロポン禍もようやく鎮静化をみることとなりました。
画像

↑覚せい剤取締法違反による検挙人員の推移
平成25年度版犯罪白書(CDロム版4-3-1-1図)に基づいて私がグラフ化したもの

2、当時の密造ヒロポンとは
 当時、ヒロポンと呼ばれて出回っていたものは、アンプル入りの注射剤が中心で、乱用者の多くは、この水溶液を経口使用したといいます。
 現在、覚せい剤として出回っている結晶状または粉末状のものは、この頃は覚せい剤原末と呼ばれていました。初期には、主に製薬ルートからヤミに流れた錠剤や散剤タイプの覚せい剤が使われましたが [4]、やがて、エフェドリン等を原料に本格的な密造が行われるようになり[5]、密造原末として供給されるようになりました 。
 当時の国会委員会での警視総監の発言に、覚せい剤原末の密造実態がよく表れています。「つくる方法としましては、御承知のように白金または銀を触媒としてエフェドリンから製造する製造方法としてはこれが一番簡単でございますので、これによって原末をつくつて、蒸溜水または水に、一定の割合で混じて、自家製のアンプルに溶閉して、これをレツテルも張らずに流してしまう。もう一つのは、フエニル醋酸、塩化ベンゼル、青化ソーダなどの混合薬品を原料として、これらの化学的操作によって製造するものでございます。ただこの方法は相当技術的な知識を要するのでありまして、原末密造につきましては前者の方法をとる方が簡単でありますので、当庁で検挙した原末密造六件のうち前者の方法によるものが四件、後者の方法によるものが二件ということになっております[6] 。」
 昭和29年には覚せい剤取締法に、覚せい剤原末の密造対策として、エフェドリンなどの覚せい剤原料に対する法規制が盛り込まれましたが、規制開始後にはエフェドリンの密輸事犯が増加したといいます。
 いっぽう、原末を入手して、水で溶いて覚せい剤液を調整し、アンプルに詰めるのが、「アンプル屋」と呼ばれた密造者の仕事でした。当時の国会委員会では、こうした密造者の姿が次のように伝えられています。「新聞に出ている、普通密造としてあげられている連中は、そういうもの(密造された原末)を買って来まして、それを水に溶いてアンプルへ詰めるという仕事をやっておるのであります。これはごく簡単に、それこそ裏長屋の三畳でも戸だなの中でも、アルコールランプさえあればできるので、これがたいていあげられる[7] 。」
 警察による密造摘発の対象となったのも、ほとんどは、こうしたアンプル詰めを行う密造者でした。古い裁判例に残された覚せい剤密造事件から、当時の覚せい剤密造の姿を拾い出してみましょう。
 昭和27年9月に東京地裁で審理されたなかに、足立区内の自宅で、約3か月間で2万本のアンプル入り覚せい剤を製造し、その後の20日間には知人宅で約5000本を製造したという事件があります。覚せい剤の製造と所持で起訴された被告人は、懲役8月及び罰金2万円を言い渡されました[8]。
 同年11月に、覚せい剤入りアンプル約1万3000本を製造したとして、東京高裁で判決を言い渡された男性の事件では、判決は事件の経緯について「被告人は朝鮮人のAより粉末たるフエニルメチルアミノプロパン一〇瓦(著者注・グラム)を買受け溶器、蒸溜水、濾紙を使用してこれを溶解濾過した上アンプルに充填溶閉して・・・覚せい剤一立方糎アンプル約一万三千本を作出したものである」と記載しています[9] 。
 また、昭和31年9月の大阪高裁判決に、没収手続の関係から、覚せい剤密造事件での押収品が詳しく記載されているものがあります。判決文に列記された押収品の中から、覚せい剤原末などの原料とおぼしきものを拾ってみると、メチルプロパン粉末約三百瓦、茶色底角封筒入粉末七袋、覚せい剤粉末約五百瓦、白色結晶若干、覚せい剤錠剤約三百五十個、同粉末約二十瓦、茶色底角封筒入覚せい剤粉末一袋、白色粉末包九包、覚せい剤粉末約六瓦、白色粉末七包、塩酸プロパミン粉末約十瓦、原粉末若干、覚せい剤原末十袋、白色粉末一包、覚せい剤原薬約三〇瓦と多種多様な粉末が押収されています[10] 。おそらく、様々な手段で入手した原末のなかには、製薬ルートから流出したものや、密造されたものが混在していたのでしょう。

出展
[1]1959年の覚せい剤事犯検挙人員は55,664人となり、乱用はピークに達した。
[2]近藤光治「覚せい剤事犯の回顧と展望」、警察学論集8巻1号50頁、1955
[3]中島治康「戦後の日本における薬物乱用防止対策」警察学論集41巻8号、34頁以下、1988
[4]前注[3]書46頁
[5]前注[2]書は、「原末密造の方法にエフェドリンを原料とする外、化学合成物質を原料として、密造する者が多くなりつつある」としている( 頁)。
[6]昭和29年5月20日衆議院厚生委員会での田中参考人(警視総監)の発言
[7]昭和29年5月29日衆議院厚生委員会での林障参考人の発言
[8]東京地判昭27.09.18、D1-law24002205
[9]東京高判昭27.11.08、D1-law27680356
[10]大阪高判昭31.09.20、D1-law24004174

続く
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日本の覚せい剤密輸を振り返る|覚せい剤密輸の半世紀1

2014/03/18 23:51
現在、日本の乱用市場に出回る覚せい剤のほとんどは、外国で密造され、不正な手段で密輸されたものです。
最初は国内で密造されていた覚せい剤が、外国から密輸されるようになったのは1970(昭和45)年ころのことで、それ以来、日本の乱用市場に向けて、外国産の覚せい剤が密輸され続けていることになります。
日本への覚せい剤密輸が始まって、やがて半世紀を迎えようとする今、日本に運び込まれる覚せい剤は、その産地も、密輸を取り仕切る組織も、大きく変貌しようとしています。その変わり目を目の当たりにして、あらためて、覚せい剤密輸の半世紀を振り返ってみようと思います。

まず1回目は、この半世紀の流れを概観しておきましょう。

プロローグ、覚せい剤の国内密造・・・1950年代〜
1951年、当時はヒロポンと呼ばれていた覚せい剤を規制する覚せい剤取締法が制定され、それまで製薬会社によって製造され、薬局を通じて販売されていた覚せい剤の製造・流通が禁止されました。「違法」となった覚せい剤取引は地下へ潜り、密造・密売されるようになり、やがてその過程に暴力団が深く関与するようになっていきます。
覚せい剤の密造は、当初は国内で行われていましたが、1950年代半ばから警察の取り締まりが強化され、国内の密造拠点が徹底的に摘発され、1955(昭和30)年ころから鎮静化へ向かいました。その後も散発的に密造事犯の摘発が続きましたが、1975(昭和50)年ころには、国内での覚せい剤密造は壊滅したといわれます。

1、密造拠点を近隣国へ移転・・・1970年代〜
しばらくの間平穏を保っていた覚せい剤の状況に、変化が生じたのは1970(昭和45年)ころのことで、アジアの近隣国から密輸される覚せい剤によって、再び、日本の覚せい剤市場が再び活況を取り戻し始めました。取り締まり強化によって密造が困難になった日本から、暴力団の手で、アジアの近隣国への密造拠点移転の動きが起き始めたのです。
最初に日本向けの覚せい剤密造拠点が設けられたのは韓国で、1970年代には韓国からの覚せい剤密輸の摘発が急増しますが、やがて韓国での取り締まり強化に対応する形で、1980年代には台湾に新たな密造拠点が開かれ、台湾からの密輸が増えるとともに、1回あたりの密輸量が増加し始めます。

2、大規模な密造地域の形成・・・1990年代〜
韓国や台湾の覚せい剤密造拠点は、各国での取り締まり強化にともなって、さらに新たな地域に移転・拡散していきます。台湾の密造グループは、対岸の中国福建省や広東省の沿岸部に新たな密造拠点を広げ、また韓国の密造グループからは、韓民族の住む中国北東部へ密造技術が伝えられたといいます。
中国の広東省や北東部で覚せい剤密造が次第に活発化し、それまでヘロイン乱用者が多かった中国に、新たな合成薬物として覚せい剤乱用が広がり始めました。同時に、中国から日本への密輸量も急激に増加していきます。

3、海上ルートでの大量密輸・・・1990年代後半〜
1990年代後半になると、北朝鮮で国家的な規模で密造された覚せい剤も加わり、わが国は大量覚せい剤密輸の時期を迎えました。
この時期に行われた密輸手法のひとつに、「瀬取り」があります。覚せい剤は北朝鮮や中国の港で船に積み込まれ、日本側から回収に向かう船舶との間で、1回に数百キロの覚せい剤が公海上で受け渡しされたのです。
しかし、2000年を過ぎたころ、空前の大量密輸時代に突然の幕引きが訪れました。北朝鮮不審船事件などをきっかけに領海の警備が厳しくなり、また相次ぐ大型密輸摘発によって暴力団の密輸活動が封じられた結果、わが国に流入する覚せい剤が大幅に減少し、日本の覚せい剤は冬の時代を迎えました。

4、国際密輸グループの暗躍・・・2000年代〜
冬の時代を終わらせたのは、新たな産地から覚せい剤を持ち込む外国人の密輸グループでした。2007年ころカナダからの密輸が増えたのを皮切りに、その後は、イラン系、西アフリカ系といった国際密輸グループの手によって、世界の各地から覚せい剤が運び込まれ出したのです。
アジア各地はもちろんのこと、アメリカ大陸、中東、アフリカなど、これまで覚せい剤と無縁だと思われていた土地からも、日本に向けて、覚せい剤が密輸され、日本の覚せい剤調達圏は一気に地球規模に拡大しました。

5、巨大産地メキシコの登場・・・2010年代〜
ここ数年、世界各地に広がった覚せい剤供給地のなかでも、メキシコの存在が急速に浮上しています。メキシコのカルテルは、薬物の巨大消費地であるアメリカに向けて覚せい剤の密造を行ってきましたが、近年、その製造能力を急速に拡大させるとともに、密輸先もアフリカやアジア太平洋地域に拡張していると見られています。
新たな巨大産地から送り込まれる大量の覚せい剤が、日本の乱用市場にもたらす変化が気がかりです。
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阿片からヘロインへ|芥子と阿片3

2011/05/30 02:32
中国の阿片問題は、その後、日本の侵攻とともにますます深刻さを増していきますが、それについては別な機会に改めてまとめることにして、話を先に進めましょう。
第二次大戦後、かつて阿片禍に苦しんだ中国や東南アジアでは、阿片の乱用はほとんどみられなくなり、中国の阿片喫煙にまつわる文物も、今では過去の遺産となりました。阿片を薬物として摂取する習慣は、現在では少数派になっており、地域としてはイラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、およびロシア連邦の一部に集中しています。前述したように、わが国では乱用目的で阿片が流通することはほとんどなく、ごくまれに、阿片が押収されるのは、たいてい、中東地域出身の外国人が自分で使うために所持したり、密輸したケースに限られます。

では、世界の阿片問題は、すでに解決したのかというと、とんでもない。阿片をめぐる不正取引はますます拡大し、2008年では世界の不法阿片の生産高は年間650億ドル(約5.2兆円)に達しています。5.2兆円といえば、日本の国防費の年間予算と同じくらい、途上国のなかには1年分の国家予算がこのくらいの国もあります。生産量でいうと、2009年の世界の不法阿片の生産量は7,754トンと推計されています。ちなみに、その89%に当る6,900トンがアフガニスタンで生産されています。

さて、この大量の阿片がどこで消費されているかというと、そのうち550億ドル(約4.4兆円)分はヘロインに加工されて、世界の薬物マーケットに流れているのです。ヘロイン消費が多いのはヨーロッパとロシアですが、中国でも乱用される薬物の第1位はヘロインなのです。
実は、中国のヘロイン禍を広げる下地を準備したのは、少なくとも東北地域に関しては、日本人だったのかもしれません。昭和18年の在北京日本大使館員による報告書によると、中国華北地域では、ヘロインなどの麻薬の密造、密売が横行し、ヘロインの不正注射をする乱用者が20万人内外いたといい、また北京市内では1日に100人以上が路傍で変死しており、そのほとんどが麻薬乱用者だとしています。そして、華北で麻薬の密造を始めたのは、そもそも日本人が最初だったとも述べているのです(渡辺寅三郎「華北に於ける麻薬秘密社会の実体」岡田芳政ほか編『続・現代史資料12 阿片問題』415〜462頁、みすず書房、1986)。

阿片は古くから使われてきましたが、17世紀ころに喫煙によって阿片乱用問題が深刻化し、やがて阿片戦争に象徴される大きな社会問題となりました。さらに、20世紀に生み出されたヘロインの注射使用が広まったことで、乱用は一気に世界へ拡大し、ますます大きな弊害をもたらすようになっているのです。
阿片やヘロインは、日本人にとってはあまりなじみのない薬物ですが、でも、近代の歴史のなかで、日本あるいは日本人がこの問題に関与した痕跡は、はっきり残っているようです。

[参考文献]
@国連薬物犯罪事務所『2010年版世界薬物報告書World Drug Report 2010』
http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2010.html

[ヘロインに関する過去記事]
●羽田でヘロイン密輸入事犯を摘発|そこでヘロインについて
http://33765910.at.webry.info/201105/article_13.html
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タイトル 日 時
中国清時代の阿片|芥子と阿片2
中国清時代の阿片|芥子と阿片2 阿片・・・麻薬の代表格として、あるいは阿片戦争という史実を通じて、その名は日本人に広く知られていますが、阿片を(写真でも)見たことのある方は少ないと思います。「阿片」で想起するイメージといえば、辮髪の中国人が長いキセルで吸っている光景や、あるいは阿片戦争を描いた絵といったものでしょうか。日本人と結びついた阿片の光景は、ちょっと思い浮かびません。 これは、当然のことなのです。日本国内では、これまで阿片の乱用が広まったことがほとんどなく、阿片が幅広く流通した実績がないのです。時おり時代劇で「ご禁制... ...続きを見る

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2011/05/28 23:57
警察と覚せい剤|覚せい剤問題の歴史10
5 警察と覚せい剤 ...続きを見る

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2011/05/08 16:04
ヒロポン密造団|覚せい剤問題の歴史9
4 ヒロポン密造団 ...続きを見る

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2011/05/07 01:28
偽造品から密造品へ|覚せい剤問題の歴史8
3 偽造品から密造品へ、ヤミ商品化したヒロポン ...続きを見る

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2011/04/25 17:08
ブラックマーケットの誕生|覚せい剤問題の歴史7
2 ブラックマーケットの誕生 ...続きを見る

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2011/04/20 01:30
ヒロポン国を亡ぼす|覚せい剤問題の歴史6
U戦後の混乱とヒロポンの大流行 ...続きを見る

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2011/04/18 22:24
ヒロポン入りチョコレート|覚せい剤問題の歴史5
戦時下の日本では、軍需用としてヒロポンなどの覚せい剤が使われたと伝えられていますが、そのなかで、航空隊でのヒロポン使用に関する具体的な証言が残されています。 ...続きを見る

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2011/04/16 16:41
突撃錠、猫目錠―覚せい剤の軍事使用|覚せい剤問題の歴史4
5、突撃錠、猫目錠―覚せい剤の軍事使用 ...続きを見る

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2011/04/14 23:24
ペルビチンの発売|覚せい剤問題の歴史2
3 メタンフェタミン製剤ぺルビチンの発売 ...続きを見る

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2011/04/12 23:50
元気の出る薬|覚せい剤問題の歴史1
元気の出る薬|覚せい剤問題の歴史1 震災以降、沈うつな空気に覆われているなかで、ブログの更新にも熱がはいりません。こんなときには、長期戦で続けている勉強をこつこつ進めていくに限ると、ここしばらく、覚せい剤問題の歴史と取り組んでいました。少しずつ集めておいた文献を読み、メモを作り、毎日コツコツ・・・。 ようやく形になり始めた学習メモを、すこしずつ掲載していきます。これは、あくまでも私自身のノートであり、いずれ論考をまとめるための準備メモですから、文献探しが進むにつれて、私の視点が変わることもあります。 ...続きを見る

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2011/04/11 22:18
続・ナチス軍の覚せい剤|第二次大戦と薬物
第二次大戦下の日本軍では覚せい剤(メタンフェタミン)が使用されていましたが、同じ時期に、ナチスに支配されていたドイツ軍でも、メタンフェタミン製剤が、前線の兵士に支給されていたといいます。 SPIEGEL online 2005年6月5日付け「ナチスの死のマシーン―ヒトラーの薬物兵士たちThe Nazi Death Machine:Hitler's Drugged Soldiers」という記事を通じて、戦争という極限状態で使用され、兵士たちに悲惨な依存をもたらしたメタンフェタミンについて考えてい... ...続きを見る

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2011/01/20 23:59
ナチス軍の覚せい剤|第二次大戦と薬物
覚せい剤(メタンフェタミン)が、第二次大戦下の日本軍で、軍需物資として使われていたことは、よく知られています。当時、錠剤タイプのメタンフェタミンやアンフェタミン製剤が製薬会社によって販売され、一般にも広く使われていましたが、戦況が激化するにつれ、こうした製剤が「突撃錠」「猫目錠」などと呼ばれて、前線の兵士や軍需工場で働く人たちに支給されたといわれています。 ...続きを見る

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2011/01/17 03:12
戦後のけし栽培|植えてよいけし、悪いけし8
●第二次大戦終戦とけし栽培 1945(昭和20)年9月、日本はポツダム宣言を受諾。10月2日には敗戦国日本へ連合国軍が進駐を開始します。連合国最高司令官総司令部の覚書に基づいて発せられた一連のポツダム命令のなかには、戦後日本の麻薬政策に関するものも多数含まれています。 日本は、当時の国際社会で麻薬の問題国家とみなされており、日本占領と同時に、麻薬をすべて凍結し、押収し、今後二度と日本が麻薬に関わらないようにすることが優先事項とされたのです。連合国軍が麻薬と考えたのは、あへん、コカイン、モルヒ... ...続きを見る

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2010/05/14 23:49
戦前のけし栽培|植えてよいけし、悪いけし7
●第一次大戦時のモルヒネ輸入途絶 明治末ころには、年産10キログラムを割り込むところまで落ち込んだ国内産あへんの生産が、ふたたび脚光を浴びるようになったのは、大正3年からです。 第一次世界大戦が始まった1914(大正3)年、日独開戦によってドイツからの輸入が途絶し、薬品、化学品の多くが影響を受けました。なかでもモルヒネ、コデインなどあへんアルカロイド系薬品の価格高騰が目立ち、当時の新聞は、100%から200%の値上がりをきたしたものがあると報じています。当時、軍の活動が活発化するとともに、麻... ...続きを見る

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2010/05/12 18:12
明治期のけし栽培|植えてよいけし、悪いけし6
1878(明治11)年、薬用阿片売買並製造規則が制定されたことにより、あへんを採取するためのけし栽培が免許制になりました。その後、明治30年には(旧)阿片法が制定され、国によるあへんの専売制度は定着していきます。免許によってけしを栽培する農家は、生産したあへんをすべて国(地方庁)に売り渡すよう定められています。一見すると、売り先の不安がなく安定した産物に見えますが、その実、わが国のけし栽培は、明治から現在に至るまで、政策に翻弄され続けてきたようです。 けし栽培の推移を知るために、3つの資料を参... ...続きを見る

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2010/05/12 03:04
死刑の主張|薬物犯罪に対する罰則強化の流れ2
昭和38年の麻薬取締法改正の大きな眼目のひとつが、罰則の強化でした。昭和30年代、ヘロインを中心とする麻薬取引が暴力団の資金源となっていることが問題視され、この動きを封じるためにも、罰則の引き上げが要求されたのです。当時の世論には、麻薬禍を一気に解決するために、厳罰をもって臨むべしとする機運があったようで、それを代表するのが、「麻薬事犯に対する最高刑を死刑に」という主張でした。 ...続きを見る

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2009/10/07 23:36
昭和38年の麻薬の罰則強化|薬物犯罪に対する罰則強化の流れ1
大麻の栽培について予備罪を適用のニュースから出発して、薬物の輸入事犯に対する罰則強化の歴史について、いろいろと調べ始めました。予備罪を適用することの是非について、コメントも寄せられていますが、ここでは、薬物輸入に対する罰則強化の流れについて、もう少しマクロな視点から眺めておきたいと思います。 ...続きを見る

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2009/10/07 01:22
世界大戦とあへん・麻薬15|日本人と薬物、150年の戦い
●日本人に広がる麻薬中毒 「華北に於ける麻薬秘密社会の実体」から、中国におけるヘロイン等麻薬の影響をみていきます。まず著者は、1943年春の北京市では、路傍の変死人と窃盗の激増が話題になったと伝えます。 ...続きを見る

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2009/05/29 23:04
世界大戦とあへん・麻薬14|日本人と薬物、150年の戦い
●麻薬犯罪組織の形成と巨大化 1920年代、日本で生産されたモルヒネやヘロインが中国に密輸されていることが、国際社会で非難を浴びた時期がありました。当時、ジュネーブで国際連盟事務局長の任にあった佐藤尚武は、概略次のように言っています。 わが国では届け出だけで膨大なモルヒネ、コカインなどを製造することができたため、これを中国に輸出した。製薬業者が自ら輸出したものは少なく、転売を繰り返して中国に密輸出される。わが国では当局の取り締まりが手ぬるく、「監督の目をかすめて、いつのまにか、膨大な数量の麻... ...続きを見る

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2009/05/29 00:08
世界大戦とあへん・麻薬13|日本人と薬物、150年の戦い
●日本による毒化政策 蒙疆産あへんは、その生産量のほとんどが華北、華中へ配給されました。華北は北京を中心とした地域、華中は上海を中心とした地域です。日本がもたらしたあへんによって、これら地域にどんな状況が生じていたのか、江口圭一『日中アヘン戦争』岩波新書(1988)は、東京裁判の検察側書証を引用しながら、各地の様子を伝えています。 ...続きを見る

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2009/05/28 00:42
世界大戦とあへん・麻薬12|日本人と薬物、150年の戦い
●大東亜のあへん構想 1937(昭和12)年、盧溝橋事件を契機に日中戦争は全面戦争へと拡大し、関東軍は内蒙古地域に3つの蒙疆傀儡政権を樹立します。さらに、1938年(昭和13)年秋までに、日本軍は中国の主要都市のほとんどを占領下におき、日中戦争は戦線が拡大したまま持久戦に入ります。 ...続きを見る

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2009/05/24 01:15
世界大戦とあへん・麻薬11|日本人と薬物、150年の戦い
●満州国におけるあへん制度・・・1940年ころ 「満州国ニ於ケル阿片政策」江口圭一『資料日中戦争期阿片政策―蒙疆政権資料を中心に―』183〜189頁、岩波書店(1985)によって、1942(昭和17)年ころの状況をみていきます。この資料は日付も署名もありませんが、その出所からして当時の蒙疆政権の阿片政策担当者が、参考のため、隣接する満州国の実情をまとめた報告書であると考えられます。 ...続きを見る

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2009/05/20 22:54
世界大戦とあへん・麻薬10|日本人と薬物、150年の戦い
●満州国におけるあへん制度・・・1930〜40年ころ 満州国阿片令が発布された時期、台湾ではすでにあへん依存者に対する矯正治療が一定の成果を収め、政府の阿片政策は最終的なあへん禁断に向かって動き出していました。台湾で採用されたあへん漸禁主義が、台湾とは比較にならない面積と人口を有する満州で通用するかと危ぶむ声もあったものの、満州においても、台湾と同様の漸禁主義に基づく阿片専売制度が行われることになります。 ...続きを見る

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2009/05/19 21:13
世界大戦とあへん・麻薬9|日本人と薬物、150年の戦い
●満州、蒙彊とあへん政策・・・1930年代〜 1932年3月に建国を宣言した満州国は、同年11月に阿片法を布告してあへんの専売制度を開始しますが、このころから、日本が関わるもうひとつの麻薬問題、すなわち「あへん問題」が台頭してくることになります。 1920年代、国際社会で非難されてきたのは、主に、日本人が関与するモルヒネ、ヘロイン等の麻薬密輸の問題でした。日本人商人が関与し、朝鮮人や中国人らも加わって行われる不正取引によって、中国に大量の麻薬や麻薬原料が密輸され、また中国国内でモルヒネやヘロ... ...続きを見る

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2009/05/19 04:04
世界大戦とあへん・麻薬8|日本人と薬物、150年の戦い
●満州建国と国際社会での孤立・・・1932 1931(昭和6)年の満州事変、翌年の満州建国をめぐって、日本に対する国際的な反感と非難はいよいよ高まります。1933年2月、国際連盟総会がリットン調査団の報告書に基づいて満州国を否認する決議を行ったことから、日本は連盟総会から代表団を引き上げ、脱退を通告します。(昭和8年2月20日「連盟総会における日本代表の引揚げその他対策に関する閣議決定」日本外交文書 満洲事変3 外務省編 1981 pp.509-510) ...続きを見る

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2009/05/17 22:07
世界大戦とあへん・麻薬7|日本人と薬物、150年の戦い
●旧麻薬取締規則の制定・・・1930 1930年(昭和5年)、ジュネーブ会議で採決された第二阿片会議条約に沿って、国内法を整備するため、麻薬取締規則(昭和5年5月19日内務省令第17号)が公布されます。この規則は、麻薬の製造、国際的な流通規制を主な目的としたもので、製造、輸出入(移出入輸入)にあたって・入に関する規定が規則の中核をなしています。 ...続きを見る

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2009/05/16 15:59
世界大戦とあへん・麻薬6|日本人と薬物、150年の戦い
●ジュネーブ国際あへん会議・・・1924・1925 1920年代を通じて国際連盟を舞台に展開された、あへん・麻薬取引をめぐる外交戦は、1924〜1925年のジュネーブ国際あへん会議でひとつの山場を迎えます。会議開催の牽引力となったのは、人道外交を掲げてもっとも厳しい態度で臨むアメリカでしたが、既得権益を持つイギリスがこれに反発し、主要な討議の場からアメリカを隔離する目的で、2つの会議を召集することを提案しました。つまり、東洋におけるあへん喫煙の削減をテーマとする第一会議と、危険薬品の製造及び使... ...続きを見る

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2009/05/15 01:33
世界大戦とあへん・麻薬5|日本人と薬物、150年の戦い
●「モルヒネ」「コカイン」及其の塩類の取締に関する件・・・1920 1920年、日本政府は内務省令を発し、内地から占領地域や外国へ流出するモルヒネ等の規制を開始します(大正9年12月6日 内務省令第41号 「モルヒネ」「コカイン」及其の塩類の取締に関する件)。 この省令は、モルヒネ、コカイン、ヘロイン、エチルモルヒネ、コデインについて、輸出入(及び移出入)をするとき、製造するときは事前に届出て許可を得るよう義務付け、また製造者に対してはその製造実績を帳簿に記録し、年に1度届出をするよう規定し... ...続きを見る

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2009/05/13 21:51
世界大戦とあへん・麻薬4|日本人と薬物、150年の戦い
日本は、主に英米から大量のモルヒネなどを輸入しているが、国内で医療用に使用されるのはごく一部であり、残余は中国などへ密輸されているにちがいない。英国が主導する形で、国際社会で沸き起こった日本への非難は、まず、モルヒネなどの麻薬密輸問題として始まりました。 「1920年代を通して、日本人が関与する密輸問題はアヘンそのものよりはアヘンを原料とするモルヒネが中心となる。」後藤春美は『アヘンとイギリス帝国』のなかでこのように指摘しています(後藤春美『アヘンとイギリス帝国』64頁、山川出版社、2005)... ...続きを見る

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2009/05/13 00:27
世界大戦とあへん・麻薬3|日本人と薬物、150年の戦い
1908年、上海会議が開催され、中国の阿片問題は国際的なテーマになると同時に、各国の利愛をめぐって外交戦の的にもなっていきます。中国政府は以後10年のうちにあへんによる煙害を一掃することを宣言していました。その期限を迎えた1917年(大正6)年、中国政府は阿片厳禁令を発布し、翌年1月には上海で残存あへん1207箱の公開焼棄処分を行いますが、内戦が続く中で実効はほとんど上がらないばかりか、その影響であへんからモルヒネ等の麻薬へ乱用を広める結果ともなります。当時の新聞は「阿片の喫煙、取引、売買、輸入... ...続きを見る

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2009/05/12 02:43
世界大戦とあへん・麻薬2|日本人と薬物、150年の戦い
1914(大正3)年、第一次世界大戦によってドイツからの輸入が途絶した医薬品の国産化に向けた動きが開始され、化学工業界は好況に沸き立ちます。モルヒネも、国産化が急がれた品目のひとつですが、問題は原料の入手でした。阿片法によってあへんの輸入は制限され、また国内産のあへんは全量を政府が買い上げていたのです。さらに、大戦勃発によって世界の阿片相場が高騰し、原料調達が困難になっていた事情もありました。 ...続きを見る

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2009/05/10 04:30
世界大戦とあへん・麻薬1|日本人と薬物、150年の戦い
あへんに含まれる主要な成分はモルヒネで、日本で採取される生あへん中には、7〜15%程度のモルヒネが含まれています。19世紀初頭にあへんからモルヒネを取り出すことに成功し、さらに19世紀半ばには注射剤として使用されるようになり、麻酔薬や痛み止めとして、モルヒネは広く使われてきました。日本は、医療に用いられるモルヒネのほとんどをドイツからの輸入に頼っていました。 ...続きを見る

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2009/05/09 01:23
あへん厳禁主義と漸禁主義10|日本人と薬物、150年の戦い
2月14日、台湾のあへん政策の途中で中断していた「日本人と薬物、150年の戦い」シリーズに戻ります。前回の記事は、 あへん厳禁主義と漸禁主義9|日本人と薬物、150年の戦い http://33765910.at.webry.info/200902/article_12.html ...続きを見る

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2009/05/08 01:22
あへん厳禁主義と漸禁主義 番外|日本人と薬物、150年の戦い
このシリーズを中断していたのは、1冊の本を待っていたためです。劉明修『台湾統治と阿片問題 近代日本研究双書』山川出版社(1983)。すでに在庫切れで入手できないため、図書館に申し込みをして他区の図書館から取り寄せてもらったものが、昨日やっと届きました。 ...続きを見る

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2009/02/19 23:04
あへん厳禁主義と漸禁主義9|日本人と薬物、150年の戦い
●密吸食者に対する厳正処罰 前述したように、台湾阿片令は、密吸食者の取り締まりを強化することを意図して、昭和4年に改正されましたが、密吸食者対策として盛り込まれたのが、前述した矯正治療に関する条項です。吸食特許を持たずに密吸食を続けてきた阿片依存者に対して、台湾総督の命令によって、強制的に治療することができるという内容です。  第10条  台湾総督は阿片煙膏吸食の習癖ある者を矯正するため必要なる処分をなすことを得  前項の規定による処分に要する費用の負担は命令の定むる所による ...続きを見る

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2009/02/14 00:22
世界で最初の薬物尿検査|日本人と薬物、150年の戦い 余話
私はいま、日本の薬物政策の通史をまとめるための基礎資料作りに取り組んでいます。現在は、明治29年に開始された台湾におけるあへん政策について調べているところですが、その途上で、思いがけない情報に出会いました。 ...続きを見る

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2009/02/12 23:36
あへん厳禁主義と漸禁主義8|日本人と薬物、150年の戦い
●治療の成果 あへん依存者に対する矯正事業は、1930年(昭和5年)1月に更生院での治療が開始され、1934年(昭和9年)3月で一応の目標を達成したとして一段落を宣言し、その後は規模を縮小して、再度の矯正などに対応することとなりました。 ...続きを見る

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2009/02/11 22:37
あへん厳禁主義と漸禁主義7|日本人と薬物、150年の戦い
●禁断症状の管理 西欧では、19世ころからあへん製剤が多用され、また戦傷者に対して大量のモルヒネが投与された結果、多くのあへん・モルヒネ依存者が生まれ、その治療が試みられてきました。あへん系の薬物依存者が急に薬物の摂取を断った場合、極度の禁断症状に苦しみ、その苦痛が耐えがたいことから、一度依存に陥ったら薬物をやめることは困難だとされます。治療においては、この禁断症状(退薬症状)をコントロールすることがまず第一の関門となるのです。西欧では、禁断症状を緩和する治療薬として、一時期は、コカインなどが... ...続きを見る

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2009/02/10 23:53
あへん厳禁主義と漸禁主義6|日本人と薬物、150年の戦い
●あへん依存者の矯正 1929年(昭和4年)、台湾の阿片制度は方向を転換して、あへんの使用禁止策を前面に掲げますが、新政策を実施する前提として、阿片令施行後、密吸食によって新たにあへん依存となったいん者に対する矯正事業が開始されました。その基本は、いん者を行政処分による強制措置によって更生院へ入所させ、医学的な治療を施してあへん使用を断つというものです。 強制措置プラス医療で取り組んだ大規模な治療事業の概要について、ある程度具体的にまとめておきたいと思います。しかし、現在までに私が入手した資... ...続きを見る

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2009/02/09 23:50
あへん厳禁主義と漸禁主義5|日本人と薬物、150年の戦い
●矯正事業の開始 1896年(明治30年)台湾に阿片令を施行して以来、あへん漸禁政策の下に、あへんを専売として、吸食特許を受けたいん者に限って販売することが行われてきました。一部の医療機関ではあへん依存者に対する任意の治療が行われ、自ら使用をやめる例もあったといいますが、もっぱら死亡によるいん者の自然減少によって、あへん使用を絶滅させようというものです(台湾総督府警務局衛生課「台湾阿片癮(いん)者の矯正」岡田芳政ほか編『続・現代史資料12 阿片問題』51頁、みすず書房、1986)... ...続きを見る

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2009/02/08 23:55
あへん厳禁主義と漸禁主義4|日本人と薬物、150年の戦い
●専売品としてのあへん 台湾のあへん制度は、政府によるあへん専売制度と、吸食特許者に限定したあへんの提供によって構成されています。原料となる生あへんは、インド、ペルシャ、トルコ産を輸入し、これを専売局があへん煙膏に加工します。 専売事業開始当初はあへん煙膏は3等級に区分されていましたが、その後、嗜好の変化や品質改良に対応した改定が重ねられ、2等品が廃止され、昭和初期ころには売下総量の99.6%は1等品を消費するという状態になっていました。(賀来佐賀太郎「日本帝国の阿片政策」岡田芳政ほか編『続... ...続きを見る

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2009/02/07 23:55
あへん厳禁主義と漸禁主義3|日本人と薬物、150年の戦い
●あへんの吸食特許 1897年(明治30年)に施行された「台湾阿片令(明治30年律令第2号)」は、その第3条に「阿片煙膏は阿片癮(いん)に陥りたると認むる者に限り其の購買及び吸食を特許し鑑札を付与す」と規定し、「いん者」と認定された者に対して、あへん煙膏の購買、吸食を特別に認めることを定めています。 台湾のあへん制度は、政府によるあへん専売制度と、吸食特許者に限定したあへんの提供を骨子として、次第にその細部を整理していきます。1897年(明治30年)、「阿片令」を施行するに伴い... ...続きを見る

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2009/02/06 23:06
あへん厳禁主義と漸禁主義2|日本人と薬物、150年の戦い
●阿片癮(いん)者 台湾における阿片政策に関して、後年にまとめられた2つの資料に基づいてまとめます。資料の第1は、賀来(かく)佐賀太郎による「日本帝国の阿片政策」で、1924年(大正13年)のジュネーブあへん会議において、賀来が日本代表として演説したもので、台湾における阿片漸禁政策を中心に日本の阿片政策を論じたものです。第2は、台湾総督府警務衛生課による「台湾阿片癮(いん)者の矯正」という文書で、1931年(昭和6年)のものです。いずれも、岡田芳政ほか編『続・現代史... ...続きを見る

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2009/02/04 00:00
あへん厳禁主義と漸禁主義1|日本人と薬物、150年の戦い
●台湾領有とあへんの管理 清朝の支配下にあった台湾島は、福建省、広東省からの移住民などによって漢民族化が進み、中国本土の生活文化が浸透しており、あへん煙膏の吸食も広まっていました。 1894年(明治27年)に勃発した日清戦争に勝利したわが国は、翌年、清国との間で下関条約(馬關條約)を締結し、台湾の割譲を受けました。台湾島を領有した日本は、その統治政策の重要な一部として、あへん煙膏の管理に着手することになります。 ...続きを見る

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2009/02/02 23:21
幕間|日本人と薬物、150年の戦い
2008年の年頭から手がけてきた「日本人と薬物、150年の戦い」シリーズ、ようやく明治初期から中期に差し掛かりました。 ...続きを見る

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2009/01/29 21:58
近代化のなかの麻薬管理・11|日本人と薬物、150年の戦いU
●モルヒネ含有率6%をめぐる攻防 著者不詳「阿片ノ始末」薬學雑誌vol.1888,No.75(1888)pp.204-214 明治11年の「薬用阿片売買並製造規則」で、薬用あへんについて国の専売制度が定められ、製造された生あへんの全量を国が買い上げることになりました。ただし、モルヒネ含有率が基準に達しないものは、買上げの対象とせず、「預かりおく」とされています。1888年(明治21年)の薬學雑誌に掲載されたこの論文は、モルヒネ含有率6%以下を買上げ対象としない当時の規定を批判し、低含有率のあ... ...続きを見る

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2009/01/28 23:26
近代化のなかの麻薬管理・10|日本人と薬物、150年の戦いU
刑法から話題を切り替えて、明治初期の薬用あへんの状況について、もう少し補足しておきます。 まず、復習です。薬用あへんに関しては、明治11年の「薬用阿片売買並製造規則」で、政府による阿片専売制度の基本的な骨格が整い、これを整理拡充するものとして、明治30年に旧「阿片法」が制定されます。その後、第二次大戦終戦時まで、旧「阿片法」による薬用あへんの製造・販売の管理が続いていくことになります。わが国の麻薬管理にとって重要な明治初期から中期における、薬用あへんの実態をもう少し見ておきたいと思います。興味... ...続きを見る

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2009/01/28 01:02
近代化のなかの麻薬管理・9|日本人と薬物、150年の戦いU
●あへん煙に関する罪の特殊性(続き) ...続きを見る

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2009/01/26 01:06
近代化のなかの麻薬管理・8|日本人と薬物、150年の戦いU
●あへん煙に関する罪の特殊性 前回でも触れたとおり、旧刑法には「健康を害する罪」として、公衆衛生に関する犯罪がいくつか掲げられていますが、そのほとんどは、重大な過失や法令の無視などによって公衆衛生に少なからぬ影響を及ぼすといったタイプの違反であり、定められた刑の水準もそれに対応したものになっています。それと比較して、[あへん煙に関する罪]に関しては、犯罪として規定する行為の幅が広く、また刑の水準も、際立って重いということができるでしょう。 ...続きを見る

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2009/01/24 17:38
近代化のなかの麻薬管理・7|日本人と薬物、150年の戦いU
●旧刑法制定へ(続き) 旧刑法は、犯罪を「公益に関する重罪軽罪」、「身体財産に関する重罪軽罪」「違警罪」と3分類していますが、その「公益に関する重罪軽罪」の第5章「健康を害する罪」第1編に[あへん煙に関する罪]が掲げられています。ちなみに、第5章のほかの項目として[飲料の浄水を汚穢する罪]、[伝染病予防規則に関する罪]、[危害品及び健康を害すべき物品製造の規則に関する罪]、[健康を害すべき飲食物及び薬剤を販売する罪]、[私に医業をなす罪]があげられています。 明治の法律学書は、「この章(健康... ...続きを見る

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2009/01/23 23:28
近代化のなかの麻薬管理・6|日本人と薬物、150年の戦いU
●旧刑法制定へ 1870年(明治3年)に布告された「販売鴉片烟律」は、同年12月、わが国の刑事政策の基本となる刑法典「新律綱領」に吸収され、あへん煙の販売、吸食の提供、使用、所持等を禁じる規定が盛り込まれるとともに、違反者に対して死罪を含む厳しい処罰を科すことが定められました。 その後、明治初期の近代化の流れのなかで、刑法典は整備され、1880年(明治13年)には「刑法」(現行法と区別するため旧刑法と呼ばれます)が制定されます。一部は前章で述べたことと重なりますが、刑法典整備の主な流れに沿っ... ...続きを見る

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2009/01/23 00:05
近代化のなかの麻薬管理・5|日本人と薬物、150年の戦いU
●和から洋へ、薬用あへんの近代化(続き) 明治初期の麻薬管理を考えるとき、わが国は、西欧諸国とは異なる、独自の管理の歴史を歩んできたことに気づかされます。 前述したように、わが国では、中国のあへん禍の教訓から、開港と同時にあへん厳禁政策を導入し、国内でのあへん煙使用を厳罰をもって禁じました。薬用あへんに関する厳格な管理制度も、一連のあへん禁止策のひとつとして整備されてきたものです。 一連のあへん禁止策の中核にあったのは、「販売鴉片烟律」で、公布されて間もなく「新律綱領」という刑法典の一部に... ...続きを見る

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2009/01/21 23:36
近代化のなかの麻薬管理・4|日本人と薬物、150年の戦いU
●和から洋へ、薬用あへんの近代化 あへんには鎮痛・鎮痙、鎮静、止瀉、鎮咳などの作用があり、劇症を鎮める薬として珍重されてきました。わが国では、江戸時代中期からあへんが製造され、薬用に用いられてきました。 ...続きを見る

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2009/01/21 01:02
近代化のなかの麻薬管理・3|日本人と薬物、150年の戦いU
●薬用あへん専売制度 薬用あへんの実態調査を経て、1878年(明治11年)に、「薬用阿片売買並製造規則」が制定され、国内産及び輸入の薬用あへんはすべて、ひとたび国がこれを買い上げた後、司薬場(または地方庁)を通じて、許可を受けた卸売り業者に限定して売る渡すという、専売制度を敷くことになります。 この規則は、薬用あへんの流通と製造を管理するものです。まず、流通管理としては、@司薬場が売り渡すあへんには証紙が貼付され、Aあへんの取り扱いは特許鑑札を受けた業者に限定し、B薬用あへんを取り扱うすべて... ...続きを見る

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2009/01/19 20:50
近代化のなかの麻薬管理・2|日本人と薬物、150年の戦いU
●あへんの製造流通に関する実態調査 前述したように、1870年(明治3年)政府は「生鴉片取扱規則」を発布し、薬店が販売する薬用あへんの管理に乗り出しました。その手始めとして、全国の府県で、薬用あへんの実態調査が行われたのです。調査の対象は、薬用あへんを取り扱う薬店や医師でした。 ...続きを見る

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2009/01/18 21:22
近代化のなかの麻薬管理・1|日本人と薬物、150年の戦いU
19世紀末から20世紀初頭にかけて、東洋と西欧で、性格の異なる2種類のあへんの脅威が広まっていました。まず、東アジアでは、清国を中心に東アジアに拡大した、あへん煙膏の喫煙が猛威をふるっていました。あへん煙膏とは、生あへんを原料に喫煙用に加工したもので、もっぱら乱用目的で流通していました。20世紀初めには、中国人の成人男子の4人に1人はあへん使用者という状態だったといいます。 ...続きを見る

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2009/01/17 23:07
黒船とあへん禁令・9――日本人と薬物、150年の戦いT
日本が鎖国を解いた幕末から明治の初頭にかけての19世紀末、中国では、インドからの輸入に加え、国内産あへんの生産が増加して、あへん禍はますます拡大していく時期に当たり、中国人の移住に伴って、東アジアの各地にもあへん禍が広まり始めます。 国連薬物犯罪事務所編『2008年世界薬物報告書』第2章「国際的な薬物管理の1世紀」から、19世紀末〜20世紀初頭の状況をみてみましょう。 ...続きを見る

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2009/01/17 00:23
黒船とあへん禁令・8――日本人と薬物、150年の戦いT
ここで、ちょっと用語について解説をしておきましょう。 明治初頭の公文書では、「鴉片」と「阿片」という表記が不規則に使われているようにみえます。法令全書から項目を拾い出してみます。 ○阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム 明治元年(慶応4年)閏4月19日 (布) ○販売鴉片烟律 明治3年8月9日 太政官 ○生鴉片取扱規則 明治3年8月9日 太政官(布) ○鴉片烟禁止ノ儀ヲ在留支那人ニ告諭ス 明治3年8月 外務省 ○阿片製造者取調雛形 明治8年11月24日 内務省乙第156号達 ... ...続きを見る

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2009/01/15 00:19
黒船とあへん禁令・7――日本人と薬物、150年の戦いT
1870年(明治3年)8月、わが国の本格的なあへん管理政策が始動しました。諸政策の基本として制定されたのが、「販売鴉片烟律」です。 さて、この法律は、公布からわずか数ヵ月後の同年12月、わが国の刑事政策の基本法典として頒布された「新律綱領」のなかに、ほぼそのまま吸収され、その一部となります(法令全書に収録された2つの法令を比較すると、自首に対する減免規定がなくなるなど若干の異動がみられます。)ここでは、「新律綱領」の雑犯律中に販売鴉片烟の項目として収められた法文に基づいて、その内容を検討してお... ...続きを見る

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2009/01/13 23:12
黒船とあへん禁令・6――日本人と薬物、150年の戦いT
1870年(明治3年)8月、政府のあへん管理政策は、具体的な骨格を示し始めます。 通商を開始し、外国船が来航するようになった後にも、大規模なあへん密輸が行われた記録は残っていません。しかし、問題は、通商のため開港した地域で、中国人が持ち込むあへん煙膏でした。あへん乱用の習慣をもつ中国人たちが、商人として、あるいは外国船に雇われた使用人として、あへん煙膏を携えてわが国に上陸し、その周囲にあへんが広まることに対応し、横浜、長崎などの開港地では、いちはやくあへん煙膏の持ち込みや売買を禁じる具体的な措... ...続きを見る

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2009/01/12 12:19
黒船とあへん禁令・5――日本人と薬物、150年の戦いT
慶応4年閏4月(1968年6月)、ようやくその形を整えつつあった明治政府は、最初のあへん禁令を布告します。明治元年/慶応4年太政官布告第319号「阿片烟ヲ禁シ府藩県高札ニ掲示セシム」明治元年(慶応4年)閏4月19日。その内容を現代文で紹介します。 「あへん煙草は人の生気を消耗し命を縮めるものであるから、かねて条約に定めたとおり、外国人が持ち込むことを厳禁していたところ、近時、外国船が密かにこれ(あへん)を積載していると聞こえており、万一これが世上に流布すれば、民生にとって大害であるので、売買は... ...続きを見る

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2009/01/11 03:12
黒船とあへん禁令・4――日本人と薬物、150年の戦いT
幕府は、西欧諸国との間で通商条約を結ぶに当たって、あへんの輸入禁止条項を盛り込むことに成功しました。しかし、禁止の裏には、密輸がつきまといます。通商条約によって開港した港では実際にあへんの密輸が行われたようです。 ...続きを見る

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2009/01/10 00:54
黒船とあへん禁令・3――日本人と薬物、150年の戦いT
清国のあへん禍は、19世紀に、英国商人が中国で買い付ける絹や茶の対価として、インド産のあへんを大量に持ち込んだことから始まりました。日本は、西欧との通商の途を開くに当たって、あへんの持込みを禁じたのは、隣国に猛烈な勢いで広まるあへん禍の伝播を食い止めようとしたわけです。 ...続きを見る

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2009/01/08 23:58
黒船とあへん禁令・2――日本人と薬物、150年の戦いT
ハリスが老中を前に通商条約について大演説をしたのが、1857年12月のこと。そのなかで、あへん禍に見舞われた清国の状況についてハリスは警告を発し、通商条約においてあへんの輸入禁止を掲げる必要性を力説しました。しかし、ハリスに言われてはじめて、幕府は清国のあへんを輸入禁止にする必要性に気づいたわけではないようです。 ...続きを見る

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2009/01/07 23:43
黒船とあへん禁令・1――日本人と薬物、150年の戦いT
人類と薬物の戦いは、19世紀の清朝を襲ったあへん禍に始まったといってもよいでしょう。1839年に林則徐が断行した英国商人の阿片没収に端を発した阿片戦争、そして1857のアロー号事件と、あへんの密輸をめぐって清朝と欧米列強の武力衝突が繰り返されます。 ...続きを見る

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2009/01/07 00:24
印度大麻越幾斯―明治24年版改正日本薬局方
週末の一日をかけて、戦前の日本薬局方の資料を探していました。国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で古い日本薬局方の蔵書が画像として公開されているので、これを1ページずつめくって探すわけです。主な探し物は、ジアセチルモルヒネ(ヘロイン)です。 ...続きを見る

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2008/10/26 23:54
日本の薬物政策の歴史10―連合国軍の進駐開始
連合国軍の麻薬政策については、当ブログで、大麻規制の歴史のなかでも触れましたが、大麻はあくまでも麻薬管理の小さな一部分なので、改めて、麻薬管理の全体像を考えてみようと思います。 ...続きを見る

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2008/10/25 23:10
日本の薬物政策の歴史9―麻薬の問題国家としての日本
1920年代から1930年代、世界が麻薬規制に動き始めた時代に、日本が占領地域で行った阿片政策と麻薬の大量生産は国際社会の強い非難を浴び、日本は麻薬の問題国家とみられるようになっていきます。 1925年のジュネーブ国際阿片会議には日本も参加し、2つの条約を締結しました。そのうち日本本土に適用される第二阿片会議条約に対応して、1930年(昭和5年)、麻薬取締規則(昭和5年5月19日内務省令第17号)が公布されました。詳しくは当ブログ10月15日参照。http://33765910.at.webr... ...続きを見る

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2008/10/24 01:52
日本の薬物政策の歴史7―ヘロインは日本軍の兵器か?
日清戦争から第二次大戦期を通じて、日本人が中国に大量の麻薬を送り出し、また現地で密造していました。関東軍はこうした動きを制圧するどころか、むしろ擁護していたようなところがあります。また、当時の日本には阿片を「大東亜の特殊資源」ととらえ、その貿易で占領地運営を図る流れもあったようです。 そのいっぽうで、「日本は麻薬を兵器にして、中国を侵略している」と、いささか扇情的に国際世論をあおり、アメリカを味方につけようとした国民党政府の戦略も展開されていました。 ...続きを見る

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2008/10/23 00:46
日本の薬物政策の歴史7―モルヒネ、ヘロイン
生阿片を原料としてモルヒネが精製され、これがヘロイン、コデインなどのあへんアルカロイド系麻薬の原料となります。日本は早くから阿片の専売制をとっていましたが、実際には、大正初期ころまでは、医療用麻薬の多くは海外とくにドイツからの輸入に頼っていました。1914年(大正3年)ヨーロッパで第一次世界大戦が開始されると、ドイツからの医療用モルヒネ輸入に杜絶の懸念が生じ、その国産化がはかられます。1915年、台湾政府から粗製モルヒネの独占的払下げをうけた星製薬がモルヒネ製造を開始し、その後大日本製薬、三共、... ...続きを見る

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2008/10/19 17:14
日本の薬物政策の歴史6―阿片から麻薬へ
20世紀初頭から日中戦争期にかけて、中国で阿片問題が深刻化し、東南アジアから東アジア一帯に阿片問題が拡大するなかで、日本の国内では目立った阿片乱用の記録は残っていません。私はいま日中戦争期の阿片問題に関する資料を読んでいますが、日本国内での大規模な阿片問題はなく、また中国に侵攻した日本軍でも阿片乱用問題はほとんど起きなかったというのが、おおかたの見方のようです。 しかし、日本にまったく薬物問題の素地がなかったとすると、第二次大戦が終わって間もなく、日本で覚せい剤乱用が急速に拡大し、麻薬の密輸が... ...続きを見る

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2008/10/19 00:33
日本の薬物政策の歴史5―明治以降のあへん規制
当ブログ10月15日で、1924年にジュネーブ国際阿片会議で、日本代表がわが国の阿片政策を各国に説明した「日本帝国の阿片政策」を紹介しましたが、その第1章第1節に次の文章があります(かっこ内の説明は私が加筆したものです)。 「阿片の輸入は維新以前已(すで)に之が禁制を設け居り、安政五年(1858年)英国と協約を結ぶに当り、阿片の輸入及其の輸送を禁じ。禁を犯す者は之を厳罰し、贓品(ぞうひん;犯罪によって得たもの。ここで阿片のこと)は之を没収することとせり。維新後は益々其の禁を厳にし、明治元年(1... ...続きを見る

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2008/10/18 01:27
日本の薬物政策の歴史4―旧麻薬取締規則の内容
1930年(昭和5年)、第二阿片会議条約に沿った国内法を整備するため、麻薬取締規則(昭和5年5月19日内務省令第17号)が公布されます。旧麻薬取締規則の内容をみていきましょう。 ...続きを見る

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2008/10/15 21:45
日本の薬物政策の歴史3―旧麻薬取締規則
あへんは、様々に表記されます。現在、公式な文書では「あへん」「けし」と表記されますが、終戦後までは「阿片」「罌粟」の文字が使われていました。資料との関係もあるので、第二次大戦後までについては、「阿片」「罌粟」と表記します。 ...続きを見る

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2008/10/15 01:14
日本の薬物政策の歴史―対中国侵略と阿片問題の予習
日中戦争期から戦後にかけての麻薬事情を理解するために、予習をしています。まず、現在のあへん事情の概要。参照し、また文章やデータを引用したのは、医療用麻薬に関しては、厚生労働省医薬食品局監視指導・麻薬対策課編『麻薬・覚せい剤行政の概況 2007年12月』7〜15、23〜25頁。不正麻薬に関しては、国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』(http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2008.html)です。 ...続きを見る

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2008/10/11 23:41
日本の薬物政策の歴史―対中国侵略と阿片問題1
わが国の薬物乱用に対する法規制の基本となっているのが麻薬及び向精神薬取締法ですが、その原型は、第二次対戦後の占領下で連合国軍最高司令本部(GHQ)の指示によって整備されたものです。 この法律の背景を理解するには、まず、日中戦争や満州国と阿片の問題をひととおり把握しなければなりません。その背景を抜きにして、GHQが日本の麻薬政策に関して極めて厳格な姿勢で臨んだ理由を理解することができないからです。 ...続きを見る

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2008/10/09 23:47
「ドゥプ」ということば―薬物と戦った100年 番外編
19世紀末から20世紀初頭にかけて、中国を中心に東アジア、東南アジアを巻き込んだあへん問題に対処するために、初めての国際会議として上海会議が開催されたのが、ちょうど100年前です。世界は、この100年を薬物問題の拡大と戦ってきたわけです。 同じ時期、西欧社会にもあへん問題は静かに広まりつつありました。J.バーナムは『悪い習慣』の中で「19世紀末には、20万人前後のアメリカ人が、いろんな形でアヘン依存症になっていた。」といいます。(John C. Burnham (原著), 森田 幸夫 (翻訳)... ...続きを見る

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2008/08/11 02:18
清朝末期の中国とあへん―薬物と戦った100年 その8
国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』の第2章「国際的な薬物管理の1世紀」という特集を読みながら、国際協力による薬物コントロールについて考えます。 出典:国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』 http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2008.html ...続きを見る

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2008/08/06 17:42
20世紀初頭の世界のあへん生産―薬物と戦った100年 その7
国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』の第2章「国際的な薬物管理の1世紀」という特集を読みながら、国際協力による薬物コントロールについて考えます。 出典:国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』 http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2008.html ...続きを見る

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2008/08/04 18:20
米国のフィリピン領有とあへん問題―薬物と戦った100年 その6
国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』の第2章「国際的な薬物管理の1世紀」という特集を読みながら、国際協力による薬物コントロールについて考えます。 出典:国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』 http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2008.html ...続きを見る

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2008/08/03 19:49
英国での反あへん運動―薬物と戦った100年 その5
国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』の第2章「国際的な薬物管理の1世紀」という特集を読みながら、国際協力による薬物コントロールについて考えます。 出典:国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』 http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2008.html ...続きを見る

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2008/08/01 21:26
かつてない規模のあへん問題―薬物と戦った100年 その4
国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』の第2章「国際的な薬物管理の1世紀」という特集を読みながら、国際協力による薬物コントロールについて考えます。 出典:国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』 http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2008.html ...続きを見る

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2008/07/31 16:15
あへん戦争の勃発―薬物と戦った100年 その3
国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』の第2章「国際的な薬物管理の1世紀」という特集を読みながら、国際協力による薬物コントロールについて考えます。 出典:国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』 http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2008.html ...続きを見る

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2008/07/30 21:28
アヘン戦争から始まる戦いの歴史―薬物と戦った100年 その2
国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』の第2章「国際的な薬物管理の1世紀」という特集を読みながら、国際協力による薬物コントロールについて考えます。 出典:国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』 http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/WDR-2008.html ...続きを見る

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2008/07/29 23:00
薬物とたたかった100年―その1
国連薬物犯罪局(UNODC)編『2008年版世界薬物報告書』の第2章は、「国際的な薬物管理の100年」という特集です。20世紀初頭、アメリカが主導して国際的な協力でアヘン貿易を統制する最初の試みとして行われた上海あへん会議(1909年)から今年でちょうど100年です。 薬物乱用が社会の基盤を揺るがした最初の大波が、中国を襲ったのは清朝時代の19世紀。対アジア貿易を独占していた東インド会社を主役として、インドで生産したあへんを中国に販売し、中国から茶や絹を買い付ける三角貿易によって、英国が東アジ... ...続きを見る

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2008/07/28 00:56
アメリカと薬物の歴史、これが定本
2週間ほどにわたって、アメリカと薬物の100年史について、視点を変えながら紹介してきました。薬物乱用は、社会問題として現れ始めてからまだ100年と少ししか経過していない、新しい問題です。 20世紀初頭に、国際政治の場で、その国際的な流通を規制しようとする動きが始まり、それと歩調を合わせる形で、各国の法規制が開始されてから、およそ100年。時には厳罰をもって臨み、時には治療を優先させた解決を図り、アメリカの薬物規制は、振り子のように大揺れしながら、この100年を歩んできました。 ...続きを見る

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2008/04/06 23:00
薬物政策討論の再開
「薬物との戦いwar on drug」は、薬物の需要削減(ディマンド・リダクション)と供給削減(サプライ・リダクション)の両面から進められました。需要削減とは、教育や広報によって薬物に対する否定的な見方や態度を育て、薬物使用を減らそうとする取り組みのことで、「ダメ!ゼッタイ Just Say No!」をスローガンにした全国キャンペーンや、メディア作戦、ドラッグフリーな学校や地域をめざす運動などが展開されました。また、薬物犯罪に対して厳罰主義で臨み、規制薬物の少量の所持や売買に対しても厳しい刑罰を... ...続きを見る

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2008/04/05 23:53
薬物との戦い
1970年代の終盤、アメリカでは薬物、とくにマリファナに対する法規制を見直すべきだという論調が、かなり高まった時期がありました。その背景には、ヨーロッパ各国の動きがあったことは言うまでもありません。最尖峰をゆくオランダは、1976年にあへん法を全面改訂し、大麻を分類2の薬物としています。 ...続きを見る

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2008/04/04 23:04
ベビーブーム世代の衝撃
ジェイムス・A・インシャルディ編『薬物合法化の討論The Drug Legalization Debate』第2版を参照しながら、アメリカ社会と薬物の歴史パート3を続けます。 ...続きを見る

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2008/04/04 01:29
アメリカ社会と薬物…別な視点から
アメリカ社会が薬物乱用の問題と直面するようになって100年余。それは、薬物乱用の蔓延と、それを阻止しようとする努力との戦いの歴史であったといえるでしょう。アメリカ社会と薬物の100年史、3つ目として、ハームリダクション論をベースにした視点からみてみましょう。 ...続きを見る

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2008/04/02 21:30
「薬物との戦い」の副産物
1980年代にアメリカ社会に広まった薬物乱用反対運動。スローガンは“Just Say No!”理屈は要らない、とにかくダメ!というシンプルな呼びかけが、全米に広まり、その後日本ではこれを「ダメ!ゼッタイ」運動として推進しました。  反薬物の波は、「薬物との戦いwar on drug」として政治を巻き込んで拡大しました。国境警備隊、税関、薬物取締局(DEA)などを動員して、外国からの薬物密輸を阻止し、また、薬物の生産国での代替作物への転換に援助を行い、さらにはラテン・アメリカ諸国の軍隊を薬物組織... ...続きを見る

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2008/04/01 23:20
70年代のダイヴァージョン・プログラムから80年代の「薬物との戦い」まで
アメリカ社会は、薬物乱用という問題への対処において、厳罰主義と治療的対応の両極を、まるで大きな振り子のように、20〜30年周期で行ったり来たりを繰り返してきました。1930年代から50年代にかけて極端な厳罰主義で対処した後、1980年までの間には、治療的対応を軸にした、ダイヴァージョン制度が活躍する時代を迎えます。 ...続きを見る

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2008/03/31 22:22
刑罰から治療へ
アメリカ社会と薬物乱用の歴史を「ドラッグ・コート」という本の第1章から、数回にわたって紹介しています。 薬物依存に対する寛容性を極端に持たなかった1950年代を経て、アメリカ社会の流れが再び変わり始めたのは、1960年代初頭のことです。折から、アメリカの薬物規制のトップであったアンスリンガーが職を離れた時期と重なっています。彼がトップであった30年間が、ちょうどアメリカ社会が薬物依存に対して厳罰で臨む傾向を強めた時代であったことから、厳罰主義の薬物政策をアンスリンガーという人物の個性と結びつけ... ...続きを見る

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2008/03/30 16:48
アンスリンガーとマリファナ税法
薬物依存者療養施設が設立された1930年代から、その後30年間、合衆国の司法による薬物規制は、ある人物の影響を強く受けることになる。かつて禁酒法の取締官であったハリー・J・アンスリンガー(Harry J. Anslinger)が初代連邦薬物局長官(U.S.Commissoner of Narcotics)に任命され、「連邦薬物局の帝王」として君臨したことで、薬物政策への態度がかつてない程厳しく、法執行的な性格を帯びた時代となったのである。 アンスリンガーは、薬物使用という行動に対処する最も効果... ...続きを見る

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2008/03/28 17:18
1920〜30年代の麻薬診療所
最高裁がウェブ判決を出して以降、医師は、薬物依存者に対する維持療法のために麻薬を処方することをしなくなった。州政府及び地方自治体当局は、この結果として、地域内に抱える多数の依存者が非合法的手段で薬物を手に入れるしか選択肢がなくなることを警戒し、1915年から1923年にかけて、約44の薬物を配付する診療所が設立された。診療所の表向きの目的は、何らかの施設内治療を受けられる時まで依存者の現状を維持すること、及び彼らの依存の治療を援助することとされた。 ...続きを見る

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2008/03/27 22:21
ハリソン法の成立と薬物犯罪
1911年12月、オランダのハーグで開催された反薬物の国際会議では、参加した12か国の代表団があへん、コカイン、モルヒネの製造と国際取引を規制する厳格な規定に同意し、これを目的とした協定に署名した。(註:国際阿片条約。日本もこの条約に調印し、それに伴い国内では、モルヒネ、コカインの輸出入、移出入を許可制とすることなどを内容とする薬物規制がされた。今日の「麻薬及び向精神薬取締法」につながるもの。)時が経つにつれ、あへんの規制に対する国際的な支持は高まり、これらの国際協定は、合衆国に自国内の薬物政策... ...続きを見る

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2008/03/26 23:23
20世紀初頭、政府による薬物規制の最初の動き
薬物規制に対する政府の関与はそもそも国際的な動きに刺激されて始まった。1898年に合衆国がフィリピン諸島を獲得し、この領土が深刻なあへん依存の問題を抱えていると分かった時、あへんの使用は初めて国家的レベルで取り上げられる問題として姿を現したのである。ルーズヴェルト大統領は、アメリカ、中国、そしてその周辺の東アジア諸国におけるあへん問題を調査しこの問題に関する国際会議を準備するために、連邦議会に予算を要請し、中国の上海で開かれる国際会議の準備を始めた。 ...続きを見る

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2008/03/25 17:48
アメリカ社会と薬物規制の歴史
これまで紹介した「悪い習慣」はアメリカ社会と薬物の文化史といってよいでしょう。今度は、法律や制度、医療といったもう少し社会的な視点で見た歴史です。医学分野の先輩の助けを得て私が翻訳した「ドラッグ・コート」という本の第1章から、数回にわたって紹介します。 James L Nolan,jr.著 小沼杏坪監訳 小森榮・妹尾栄一翻訳「ドラッグ・コート―アメリカ刑事司法の再編―」丸善プラネット(2006)より ...続きを見る

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2008/03/24 21:59
完「悪い習慣」
引き続きJohn C. Burnham (原著), 森田 幸夫 (翻訳) 玉川大学出版部 (1998/07)「悪い習慣 Bad Habits」から。 最後に1980年代のクラック・コカインの登場以降の時流について。 ...続きを見る

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2008/03/23 21:10
続「悪い習慣」
昨日に引き続きJohn C. Burnham (原著), 森田 幸夫 (翻訳) 玉川大学出版部 (1998/07)「悪い習慣 Bad Habits」から。 今日は1960年代に登場したLSDとアメリカの麻薬文化について。 ...続きを見る

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2008/03/22 23:11
悪い習慣
アメリカの大衆文化について論じた、興味深い本をご紹介します。 「悪い習慣 Bad Habits」 John C. Burnham (原著), 森田 幸夫 (翻訳) 玉川大学出版部 (1998/07) ...続きを見る

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2008/03/21 21:52

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