弁護士小森榮の薬物問題ノート

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zoom RSS 覚せい剤密輸事件 | 覚せい剤密輸の半世紀7

<<   作成日時 : 2014/04/28 16:21   >>

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6、覚せい剤密輸事件
 1970年代、韓国や台湾などの近隣国で密造される覚せい剤が日本に密輸されるようになり、日本国内で密売される覚せい剤が次第に増加し始めます。覚せい剤密輸の草分けともいえるこの時期に、どんな人たちが、どのような手法で密輸を行っていたのか、実際の事件を通じてみておきましょう。

⑴ 運び屋たち
 1970年から80年代前半、韓国や台湾などの近隣国で密造される覚せい剤の多くは、運び屋の手でわが国に密輸されていました。外国旅行の機会が限られていた当時、運び屋として日本への密輸に関与した人たちの中には、外国人船員や、墓参や親族訪問として母国を訪れる在日韓国人があったといいます。1978(昭和53)年に警察が行った実態調査によると、検挙された密輸入被疑者の35.6%を外国人船員が占めており、その大半は密輸組織の内部について知らされていない末端の運び屋であったと報告されています[46] 。
 当時の覚せい剤密輸事件の判決文から、具体的な密輸ケースを見てみましょう。

@船員による覚せい剤密輸事件判決(昭和54年)から[47]
 昭和54年1月、韓国籍貨物船の操舵手である被告人は、韓国釜山市で出会った人物から覚せい剤を日本へ運び込むよう依頼され、覚せい剤約2.4キロを手渡されて貨物船に乗り込み、到着した大阪港で、2回にわたって覚せい剤を衣服の下に隠して上陸し、密輸したという事件です。
 被告人の供述によれば、後払いで約束された報酬は1キログラム当たり100万ウォン、この件では当時の日本円で約84万円というものでした。
 なお、この事件では、覚せい剤の引き渡しに手の込んだ手段が登場しています。被告人は上陸後、覚せい剤を国鉄大阪駅構内のコインロツカーに2口に分けて隠し、指定された荷受人に、コインロツカーの鍵2個を引き渡しているのです。いっぽう、被告人は船員として乗船して韓国と日本を往復する都度、日本で電気製品や時計などを買入れて韓国へ運び、韓国で朝鮮人参などを買入れて日本へ運びそれぞれ密輸入して売却し、利鞘をかせいでいたと供述しており、当時の外国航路の船員が様々な形で小規模な密輸行為をしているなかで、覚せい剤密輸も行われていたことが推察されます。

A受取役に対する判決(昭和55年)から [48]
 いっぽう、外国人船員などの運び屋の手で持ち込まれた覚せい剤は、港で待ち受ける受取役に引き渡され、一時保管されることもあります。昭和55年の福岡地裁判決には、韓国人船員から頼まれて、博多港に密輸された覚せい剤を受け取って運搬したことから密輸・密売人とつながりができ、船員たちの密輸に加担した被告人の事件があります。
 昭和54年10月、韓国人船員と共謀して、博多港に入港した韓国のカキ殻運搬船で運び込まれた覚せい剤を密輸したとして起訴されたのは、港近くに住む日本人男性でした。本件は、10万円の報酬を約束された被告人が、博多港の岸壁に停泊中の韓国カキ殻運搬船から、2回に分けて合計約10キログラムの覚せい剤を陸揚げして密輸入し、自宅で所持していたというもので、被告人には懲役13年が言い渡されました。
 判決は、被告人は密売組織とのつながりが薄く、また覚せい剤の量に比して、受け取る報酬も僅少であったとはいえ、こうした「運び屋」が、国民の被る害悪や自己の身にふりかかる危険を顧みずにその犯行を遂げていることにより、密売組織が成り立っているのであり、その存在が覚せい剤のもたらす社会悪の根源となっていると指摘し、自己の得た利益が比較的僅少であったからといって、その刑責を特に著しく軽減されるいわれはないと判示しています。

⑵ 不況下での資金稼ぎ
 1970年代の世界を襲った不況時には、資金難に見舞われた中小企業の経営者が、運転資金を得ようと、覚せい剤密輸に加担したという事件が多発しました。

@昭和52年の覚せい剤密輸事件から [49]
 1976(昭和51)年9月、下関港に到着した関釜フェリーに乗って韓国から帰国した男性が、持ち帰ったたらこ桶内に隠した覚せい剤約300グラムが発見され、逮捕されました。この密輸計画は、運搬役男性が勤める会社の経営者で、折からの不況で負債の返済に窮し、返済資金に充てるため覚せい剤を輸入して日本国内で密売しようと企てたもので、運搬役の男性は、業務見習を兼ねた観光旅行として、韓国に渡航したものでした。
 広島地裁は、首謀者の会社経営者には懲役5年、密輸した覚せい剤の売りさばきを担当した男性には懲役4年、韓国からの運搬役を務めた男性は、行きがかり上密輸に加担したもので営利の目的がなかったとして懲役2年(執行猶予付)を言い渡しました。

A1975(昭和50)年・神奈川県警の検挙例から[50]
 不動産業者が、借金の返済に充てる目的で仲間2人と共謀して、2回にわたり覚せい 剤をショルダーバックの中に隠して、航空機でタイ国から密輸入した事犯を検挙し、覚せい剤3キログラム余を押収した。

B1976(昭和51)年・兵庫県警の検挙例から[51]  
 倒産で多額の負債を抱えた元建設会社経営者がその返済と事業の再建資金に充てるため、商用を装って韓国へ渡航し、3回にわたり覚せい剤2.1キログラムを韓国製味付のり缶の中に巧妙に隠匿の上、航空機で密輸入した事犯を検挙し、国内の関連暴力団密売組織を壊滅するとともに覚せい剤約1キログラムを押収した。

⑶ 暴力団の関与
 この時期の覚せい剤密輸事件には、暴力団が次第に関与を深めていく様子が映し出されています。当時の警察庁幹部の論考には、「新たに暴力団関係者が直接渡航して密輸入する傾向がみられはじめる」という記述がみえ[52] 、また警察白書には覚せい剤密輸に関わった暴力団関係者の検挙例が多数残されています。

@1974(昭和49)年・京都府警の検挙例から[53]  
 京都市内に勢力を有する暴力団組長の内妻が、組の活動資金の確保と勢力の拡大を図るために覚せい剤の密輸密売を企て、配下の組員や鉄筋業者等6人を運び屋に仕立て、香港から航空機で5回にわたり覚せい剤5キログラム、同原料2キログラムを密輸入し、これを関西一円に密売してばく大な利益をあげていた。

A1977(昭和52)年・岐阜県警の検挙例から[54]
 在日韓国人(51)らのグループが、51年10月以来、3回にわたり、覚せい剤13キログラムを航空機又は関釜フェリーを利用して密輸入し、東北、関東、中部地区の山口組系暴力団、元極東愛桜連合会、住吉連合等の組織を通じて広域に密売していた事犯を解明、関連被疑者29人を検挙し、覚せい剤8.8キログラム、けん銃3丁等を押収した。

B1979(昭和54)年・警視庁の検挙例から [55]
 大阪市城東区に本拠を置く山口組系暴力団A興業は、香港から24回にわたり合計約83.5sの覚せい剤を密輸入し、密売した。このうち、警察が押収した覚せい剤は約4sで、残りの約80s(約240万回分の使用量)は既に密売されていた。会長Bは、覚せい剤の密売で得た金でプール付きの豪邸に住み、豊富な資金を有していた。本件では、裏付けの取れたBら幹部3人の密売収入合計1億1,400万円の不法収入について東京国税局に通報した。

⑷ 密輸組織の形成
 暴力団が覚せい剤密輸に関わりを深めるようになると、やがてその周辺に、暴力団と密接に関わりながらも、独立した組織として覚せい剤密輸を行う犯罪集団が形成されるようになります。たとえば、当初は、暴力団関係者から頼まれて運び屋として密輸に加担した人たちの中からも、やがて自ら密輸を行うグループが生まれるといったケースです。
 1978年4月、大阪地方裁判所は、韓国からの覚せい剤密輸事件の幇助などで起訴された被告人に、懲役3年及び罰金50万円の判決を言い渡しました。事件は、韓国から覚せい剤を密輸していたNから現金を受け取り、覚せい剤の仕入れ資金に使われることを知りながら、銀行の保証小切手を振り出した被告人が、Nらの密輸を幇助したなどの罪で起訴されたものですが、その判決中に、密輸グループの形成と拡大の過程が具体的に記載されているので、その部分をかいつまんで紹介します。

C 1978(昭和53)年の裁判例から [56]
 被告人は、暴力団の会長方に出入りするうち、昭和48年9月ころ、運び屋を頼まれて引受け、韓国から覚せい剤を運び込むようになりました。当初は、暴力団会長などから頼まれ、仕入れ資金を預かって渡航していましたが、半年後には自己の覚せい剤仕入れ資金を韓国に持参するようになり、その後は自己の計画、計算のもとに自ら渡韓して覚せい剤を日本に密輸入していました。
 そのころ、被告人は、知り合いのNから覚せい剤の密輸入に加わりたいと頼まれ、同人にパスポートやビザの手続を教え、渡韓中にNと落ち合い、覚せい剤仕入れ先を紹介するなどしました。昭和49年1月ころ、Nは被告人の運び屋となることを引き受け、覚せい剤の運搬を始めましたが、およそ半年後、被告人が別件詐欺事件で勾留されたことなどから、Nは被告人から仕入れ資金を預かり、韓国での仕入れを含む一切を任されるようになりました。
 当初は被告人の運び屋として渡韓していたNは、やがて自分も仕入れ資金を出すようになり、さらに、新たな人物を輩下の運び屋に引き入れるとともに、韓国での覚せい剤の仕入れ先も変更し、また、韓国滞在中に知り合った別なグループからも仕入れ資金を預かって渡韓するようになり、同時に自らも多額の仕入れ資金を出して覚せい剤を密輸入するなどして、同年8月ころには、すでに、独立した密輸入グループの中心的存在となっていました。
 当初、韓国からの覚せい剤密輸を手掛けた暴力団、そしてその運び屋として雇われて密輸に関わりながらやがて独立して密輸を行うようになった被告人、さらに被告人の運び屋として参加してやがてその密輸を継承し、さらに拡大させたN・・・。およそ1年余という短期間に、次々と首謀者が交代しながらもひたすら拡大してきたこの密輸ルートは、捜査陣の追跡によって検挙され、一網打尽となりました。しかし、頻繁に繰り返された密輸に加担しながら、逮捕を免れた関係者もいたはずです。また、ひとたびは刑に服した人たちが再び社会に戻って、密輸ルートを再開させることもあります。
 この時期、覚せい剤密輸という甘い蜜に群がる犯罪者集団は、急速に膨れ上がっていたのです。

出典
[46] 昭和54年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[47] 大阪高等裁判所昭和54年10月31日判決、最高裁判所刑事判例集34巻4号227頁、最高裁判所刑事判例集34巻4号227頁、D1-Law22003765
[48] 福岡地方裁判所昭和55年9月22日判決、判例時報979号135頁、D1-Law27921279
[49] 広島地方裁判所昭和52年3月28日判決、D1-Law2200376
[50] 昭和51年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[51] 昭和52年版警察白書 第5章 生活の安全の確保と環境の浄化
[52] 榧野敏雄「覚せい剤犯罪の現状と展望」警察学論集26巻10号88頁、1973
[53] 昭和50年版警察白書 第5章 生活の安全と環境の浄化
[54] 昭和53年版警察白書 第6章 生活の安全の確保と環境の浄化
[55] 昭和55年版警察白書 第2章 白い粉との戦い
[56] 大阪地方裁判所昭和53年4月28日判決、最高裁判所刑事判例集36巻2号213頁、D1-Law24005802

続く

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