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20世紀初頭から日中戦争期にかけて、中国で阿片問題が深刻化し、東南アジアから東アジア一帯に阿片問題が拡大するなかで、日本の国内では目立った阿片乱用の記録は残っていません。私はいま日中戦争期の阿片問題に関する資料を読んでいますが、日本国内での大規模な阿片問題はなく、また中国に侵攻した日本軍でも阿片乱用問題はほとんど起きなかったというのが、おおかたの見方のようです。 しかし、日本にまったく薬物問題の素地がなかったとすると、第二次大戦が終わって間もなく、日本で覚せい剤乱用が急速に拡大し、麻薬の密輸が問題になり、麻薬乱用が表面化するなど、数々の問題が突然浮上した現象が、なんとも理解しにくいのです。そのカギになるのが、モルヒネ、ヘロインなどの麻薬問題ではないかと私は考えています。そこで、この時期のヘロイン問題を追ってみます。 中国でもっとも広まっていたのは、阿片煙膏で、けしから採れる生阿片を原料に、簡単な手工業的な加工を施した喫煙用の阿片製品です。しかし、同時期の中国で、ヘロインを中心とする麻薬の乱用も拡大しており、その麻薬は日本から輸出されたものだったのです。 『資料 日中戦争期阿片政策―蒙疆政権資料を中心に』の「序章 問題の所在と研究史」に次の指摘があります。 「日本は台湾領有・関東省租借・朝鮮併合によってそれぞれ阿片問題にかかわるようになったが、1910年代乃至1920年代の大きな問題は日本から中国に阿片・麻薬の密輸・密売がなされたことである。 麻薬とくにヘロインは麻薬効果が大きく、その割に低廉・簡易で、しかも一時は阿片禍を追放しうる阿片代用品として宣伝されたこともあって、急速に中国大陸にひろがり、中国は麻薬でも世界最大の市場となった。 一方、日本では第一次世界大戦でドイツからの医療用モルヒネの輸入が杜絶したため、その国産化がはかられ、台湾政府から粗製モルヒネの独占的払下げをうけた星製薬株式会社がモルヒネの精製を開始し、のちに大日本製薬株式会社・三共株式会社等も製造に加わった。」(江口圭一編『資料 日中戦争期阿片政策―蒙疆政権資料を中心に』19頁、岩波書店、1985) 同書は、東京裁判の検察側書証として提出された朝鮮総督府専売局薬品工場の記録を引用し、1938・1939の両年度における朝鮮でのヘロイン生産が異常に多量であったことを指摘しています。1936年に256キログラムであったものが1938年には1244キロ、1939年には1327キロのヘロインを生産しているのです。このヘロインが、日本人の手で中国に運ばれ、中国で密売されていました。 やがて、日本人の手でヘロインの現地製造が始まります。この事情をよく伝えている資料として、満州でヘロインを製造した製薬会社の社長であった山内三郎氏が昭和40年に発表した文章があります。後年になっての回想記で、年代の矛盾などがあり、資料として若干問題があるといわれますが、当時のヘロイン密造の事情をありありと伝える、興味深い記録なので、その一部を引用します。 「大手製薬会社が、日本の国内で阿片を生産し、さらにヘロインを製造して、製品を支那大陸に運んだのに対して、大正も末期になると大阪道修町の製薬業者などはヘロイン製造を支那現地でやる方法をとり始め、数多くの技術者や工人が大陸へ渡っていった。現地で作られたものを売り捌く販売網としては、富山の薬売り行商人がこれに参加したのだった。 現地生産組は、主に満洲、北支那に腰をおろし、熱河産阿片を原料としてヘロイン製造を開始した。熱河地方で産出される阿片は、支那各地で作られる阿片の中では、モルヒネ合有量の多い、優秀品であった。 もちろん、ヘロインの生産は支那政府官憲の前で公然と行なえるものではない。その頃支那政府は、長い間支那人民を蝕ばんできた阿片を退治するものとして諸外国からヘロインが入ってくるのを許してはいたが、阿片の退治薬が、阿片以上の麻薬であることが知られてくると、今度はヘロインを自の仇にしはじめていた。 だが、日本の薬業者が現地生産を始めた地域は満洲、北支という、日本軍駐屯地域内で日本軍を隠れ蓑にするどころか、充分な保護を得られる全くの金城湯池だったのである。」(山内三郎「麻薬と戦争―日中戦争の秘密兵器―」、岡田芳政ほか編『続・現代史資料12 阿片問題』xliv頁、みすず書房、1986) |
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